2001年 2月 の投稿一覧

「Professor」|ニュースレターNO.017

魚住先生は、常々「Professor」という言葉を使われる。それは、単に先生が大学の教員であることを指しておっしゃっているのではない。そこには、先生のスポーツトレーニングに対するこだわり、また何らかの意味があり、その言葉を使われていると考えられる。「Professor」の意味を英和辞典で引くと「教授」と書かれてある。

英英辞典も同様で「大学において教鞭をとる者の称号」と書いてある。少し範囲を広げ「Professor」の数行上の単語を見てみると「Professional」という言葉とそれに関連する単語がある。「Professional」は、「専門的職業人」という説明がされている。

これは、勝手な憶測だが両方の単語はどちらかをその語源とするか、あるいは別の同じ語句から派生し、やがて2つの単語が形成されたと考える。言い換えると、この2つの言葉は、同意語と言っても過言ではない。普段なにげなく「プロ」「専門職」「スペシャリスト」などの言葉が使われているが、本来の意味を理解し、これらの表現が使用されているのだろうか?

魚住先生がよく言われる「真のProfessorであること」の意味や真意は、何であるのか? 魚住先生のスポーツトレーニング理論を理解する上で「Professor」「Professional」という言葉の本質を理解することが先生のスポーツトレーニング理論を理解する方法の一つであると考える。今回、偶然にもそれを検証する機会を魚住先生ご自身から頂くことができた。

 

野球指導者講習会にて

1月21日(日)、関東地方に雪の降った翌日、千葉県幕張において日本野球連盟主催の「野球指導者講習会」が開催された。この講習会は、1月19日(金)より開始され、少年野球から社会人指導者、以前はプロも参加していたアマチュア野球界の大きなイベントである。

正しい野球指導の方法を啓蒙し、且つ正しい知識を有した指導者の育成が目的で東京、大阪で年1回定期的に、また地方都市を含め5都市ほどで開催されているそうである。今回、先生のお付きということで第3日目にあたる1月21日行われた先生の講習にお手伝い方々参加させて頂いた。

先生が担当された講習は、高校以上の指導者を対象として野球に特化した「トレーニング論(80分程)」と「トレーニング実技(80分程)」を20分程の休憩を挟んで午前中に行うハードなものであった。

「トレーニング論」と言ってもスポーツトレーニングに関しては全くと言っていいほど知識を持たない人達を対象とする講習であるため内容はごくごく初歩的なものであった。40‐50名ほどの指導者が受講し、ビデオで講義内容を録画したり、盛んにメモをとったりと野球指導者のトレーニングに対する関心の強さを如実に表す光景であった

先生のお手伝いとしてOHPの操作を行いながら演壇の間近で先生と受講者の表情を観察しながら講義の内容を聞かせて頂いた。内容としては、「過負荷の原則」「SAID Principle」「個別性の原則」また「体力の構成要素」というような基本的な用語が出てくるトレーニング論の基礎であった。

トレーニングを専門的にあるいは多少トレーニングに関して勉強をした者であれば誰でも理解している言葉であり、また内容も高度なものではない。しかし、理解しているのと教えるのでは大きな違いがある。自分の考えや知識を他人に伝えるのは簡単ではない。ジェスチャーというゲームがある。

あるテーマを身振り手振りで表現し、そのテーマを第3者に連想させ答えさせるゲームである。簡単そうであるが実のところなかなか簡単には自分のイメージを正確に伝達し答えを導き出すのは難しい。講義はジェスチャーと違い身振り手振りだけではなく言葉を使えるため多少伝達が容易である。

しかし、これは単純に伝達方法が一つ増えたというだけで、決して第3者に正確に情報の伝達が可能になったという保証ではない。逆に不適切な言葉の使用により間違った理解や誤認を生み出すことが多い。「て・に・を・は」を間違えただけで意味が大きく変わることはしばしば見受けられる。

OHPを操作しながら先生がどのように基本的な理論を素人相手に話し、理解させるのか注意深く観察した。感想を先に述べると、正に「職人芸」であった。平素、同じ教員として同様の講義を学生相手に行っているため内容は事前に予測でき、且つその予測通りであった。

しかし、大きく異なるところは、伝達方法であった。いや、伝達方法のみではなく理解度、言葉の選択、状況判断である。講義後、先生に「先生、時間ピッタリですが、計算されているのですか?」と愚問を投げかけてみた。すると先生の答えは、この内容は過去に何度も行っているため、全て計算できるとおっしゃった。

さらに驚いたのは、その日の受講者の構成やまた講義中の反応を見て強調する部分を臨機応変に変えていると言われた。確かに講義の進め方は、既に何度もこなしているという感想を抱かせた。しかし、状況により進行を変更されるとは驚かされた。教壇に立つ者にとり、これは当たり前のようだがなかなかできるものではない。

たいてい、講義のために多くの時間を準備に割き、講義ノートを作り、資料を作成し、時間の配分までを考えるのものである。しかし、先生は手持ちの資料さえ持たず、マイクのみを持たれ、80分あまりの講義を時間ピッタリで終了させ、それも受講者の状況を読み、素人相手にスポーツトレーニング論を講演されたのである。

内容は理解できているはずであったが、あらためて学生に戻りトレーニング論の講義を受講した気持ちになり、これまでの自分自身の講義方法を反省させられる体験であった。それと同時に基本勉強のやり直しの時間であった。

受講者が引き付けられた大きな要因を分析すると、目的と方法論の合致であると考えられる。この講習は、野球指導者が対象で学者や体育系学校の学生ではない。いわばトレーニングに関しては素人の野球技術指導者を相手にした講習である。先生のOHPシートを見ると全く数字やグラフ、表などの簡単には理解不可能な複雑な数学的、あるいは学術的な資料が見当たらない。

これが合目的的手段である。トレーニング理論の応用である。目的や状況に対して最も合理的な方法を選択するのがトレーニングの原則である。これまで数々の講習に参加した経験があるがいずれの講習も、また今回のこの講習会も他の専門家の資料を見ると数字、グラフ、はたまた難しい数式が羅列されている。

学会や学術団体の研究報告会であればこれらの資料も意味を持つだろうが、この講習会の対象は少年野球から社会人野球の指導者である。いわばトレーニングの素人で“町のお兄さんやおっちゃん”の集まりである。

その人達に「アイソキネテッィクな収縮における…」「偏差は優位なものを示した…」「投球時に上腕骨骨頭が肩甲骨関節窩から乖離し…」など言っても理解できるわけがない。

これは、講演者自身がいかに内容を理解せず、言葉を選択せずに状況に合わせた伝達をしていないかを如実に現したものであり、自ら「Professor」「Professional」であることを否定している行為である。

 

実技講習にて

20分ほど休憩を挟み、トレーニング実技に入った。先生は、また大した準備もなく、ジャージにパッと着替えられ会場に向かわれた。失礼ながら、先生をご存知の方は解ると思うが先生は決して大きな身体をなさっていられない、また引き締まったいかにもアスリートと呼べる身体でもない。

その先生が数十名に及ぶ身体の大きな野球指導者の前で野球のトレーニングを指導されるには肉体的に大きな負担であろうと考えた。アメリカのS&Cコーチを見ると選手ではないかと思うぐらい身体の大きなコーチがいる。また、日本でも現役バリバリの身体をした人がコーチをしていることが多い。

これらの身体の大きなコーチがデモンストレーションを行えば受講者も納得するものである。身体の大きさがトレーニングコーチの能力を決定するものではないが、デモして見せることを考えると身体の大きさは、トレーニングコーチの資質の一つであるとも考えられる。

しかし、その考えも先生の実技指導で一変した。先生は、会場に入るなり受講者を集め車座に座らせ、いきなり実技の説明に入った。実技の内容は、高校野球部を対象とした体幹トレーニングであった。これまで野球には体幹トレーニングが必須であると言われてきた。

その内容を見ると単純な腹筋運動、または少し応用して捻りを入れた体幹運動、あるいはバーなどの重量物を担いでの左右への捻り運動が紹介されるといったことが、一般的に普及している。

受講者の大方は、従来通りの体幹トレーニングを想像していたと思う。しかし、その内容は受講者の想像を大きく覆すものであった。トレーニングコンゼプトは、高校の野球部としては平均的な環境を考えた内容で時間的、経済的、設備的ハンデのあるチームでも限られた条件の中で効率よく、且つスポーツトレーニング理論に合致したトレーニング方法の紹介であった。

体幹トレーニングを投手用、野手用、両用のカテゴリーに分け、道具を必要とせずに短時間で行えるもので、指導者にとっても難しい指導方法や知識、経験を必要としないものであった。

しかし、もっと驚かされたのは、それが単なる体幹トレーニングではなく柔軟性、バランス、調整力の評価、またパワー養成の目的としても応用できるトレーニング内容であるという点である。

しかも、それぞれのエクササイズの動作は、人間の基本的な動作を応用したもの、刺激に対する反応を応用したもの、またPNF的な動作を応用したもので、従来の単なる反復運動による体幹トレーニングではなかった。

これには、ひどく驚かされたと同時に今までのトレーニング方法の否定とトレーニングは、基本原理の理解と想像力であることを実証するものであった。ここでは具体的な方法論について述べないが、人間の身体の基本的な動きを理解し、その動きを導き出すエクササイズのデザインができないと不可能なトレーニング方法である。

しかし、ここでも先生は、解剖学や生理学などの難しい知識から動きを理解するのではなく自然な身体の動きを理解することが肝要であるとおっしゃった。

午前中の講義と同じように個々の筋肉の名前を列挙し、解剖学的動きの用語を使用せず対象者に合わせた内容に消化し提供しているのである。

また、指導者が現場に持ち帰って実践できる内容でなければ講習の意味がないことを考え指導の際のポイントを適格に、且つシンプルに整理し提供されている。これも、物事の本質を理解し適切な伝達方法を選択できる能力を獲得していないとできるものではない。

先生の指導で最も印象に残ったのは、効率を考えたトレーニングで、先生曰く「いかに楽をしてうまくなるか、強くなるか」である。

言わば一石二鳥、いや三鳥も四鳥も狙ったトレーニング方法である。単純な体幹トレーニングが選手の体幹や腰部の柔軟性の検査、左右の筋バランス、また調整力のテストを兹ね、また先生が常日頃言われる「言葉」の指導により筋持久力的要素の体幹トレーニングがパワーを狙ったトレーニングに変貌することはトレーニング方法の無限性と効率化の手本であった。

80分ほどの実技もあっという間に終了し、開始時点での受講者の表情と終了時点の表情は大きく異なるものであった。

たいていこの種の実技講習は、質問も少なく、受講者は逆に講演者をヘコましてやろうと意地の悪い質問をする者が出るものだが、ほとんど全ての受講者が先生の話しにのめり込み、講習中、また講習後も多くの方々が質問したり、あるいは名刺を出し先生に挨拶をしたりと、その人気ぶりが先生の講習内容がいかに受講者に理解され受け入れられたかを物語っている。

 

会食にて

先生とは以前より先生が東京にお越しになる際、お時間を頂きお話を伺っている。いつもながら感心させられるのは、いつのまにか先生の話しに引き込まれているということである。

これは、先生に初めて会うほとんどの人が持つ感想である。事実、先生にお会いする際、毎回違うスポーツトレーニングやアスレティックトレーニングを志す者を引き合わせているが、その全員が先生の持つ不思議な吸引力や雰囲気に驚嘆することである。先生との会食の際は、概ね総勢で6-7名である。

これぐらいの人数になると臨席の者と話しこみ2‐3のグループでばらばらの話しになることが多い。しかし、先生との会食は、先生対残りの全員という状態になる。知らず知らずのうちに先生が中心になり、先生の提供するテーマで、先生がお話をされる、という状況が数時間にも及ぶ。

しかし、あっという間に3-4時間が過ぎてしまい、先生は、ほろ酔い気分であるが他の者は気がつくと多くのことを学び、初対面の者は正に「魚住イズム」にはまってしまうのである。

一度先生にお会いすると2度、3度とお会いして是非、話しが聞きたくなる。まるで「魚住教」や「魚住学派」である。それは、古代ギリシャの哲学者や科学者がアカデミーの広場において弟子や大衆を相手にディスカッションをしている光景を想像させる。

人々が先生の下に集まるのは、短に先生の知識や技術を盗もうとかではなく、先生から醸し出される人を引き付ける力と人間的な面白みであると思う。先生は、学びに来る者を拒まない。いや、無防備なぐらい先生の下へ集まるの者を受け入れる。

中には、下心を持ち近づいてくる者もいるであろう、また純粋に志のために先生から学ぶことができればと思い先生の門を叩く者もある。中国の学者、多分、孔子か諸葛孔明であったと思うが、その言葉に「有教無類」というのがある。

これは、「学びたい者に人種、出身、身分などはない」という意味である。真に学びたい者全てを受け入れ、全てを教授しようという考えである。数千年前の学者の名とその思想は、21世紀の現代にも脈々と伝えられ生きている。これぞまさしく「Professor」で「Professional」ではないか。

 

professorとは?

先生が日ごろ口にされる「Professor」とは、時代を越えて普遍で全ての人々に受け入れられる理論と実践を確立した者という意味ではないか。近代において科学技術の進歩と同時に多くのスポーツに関する理論や方法論が確立されてきた。

しかし、基礎的な科学的事実や現象は別にして、それらの多くは、「出ては消え、出ては消え」というものが大半である。言い換えると多くの「○○理論」と呼ばれているものや「○○トレーニング方法」というのは、単に一過性のものに過ぎないのである。真に普遍的な理論と呼べるものは、希少なのである。

全ての人に広く理解され、受け入れられ、実践できる理論や方法論を確立した者が「Professor」で、それを伝えることのできる者が「Professional」であると思う。魚住先生の言われている「Professor」、「Professional」、また先生のスポーツトレーニング理論を理解する上で重要なものではないかと考える。

現在、スポーツトレーニングコーチ、アスレティックトレーナー、または技術コーチとして活動している方や将来これらの道を目指している者は、一度、先生のご指導されている現場を見て、お話を伺うことを強く勧める。真の「Professor」、「Professional」と出会えることを保証する。

専門学校専任講師

ハンス・セリエの著書から|ニュースレターNO.016

「汎適応症候群」「ストレス学説」でおなじみの、ハンス・セリエの本を読みかけました。トレーニングの「超回復」のところで出てくる、セリエの適応理論について調べてみたかったからです。その理論がどのような状況から生まれたものなのか、非常に興味がありました。

しかし彼は1982年に死去し、彼の理論は1936年のもので、その資料を上手く見つけ出すことができませんでした。それがインターネットで本の検索をしていると、「生命とストレス」(工作舎)というセリエが1967年に書いた著書の全訳本が見つかりました。発行は1997年です。

その本を読み始めていくと、物事の捉え方、考え方が何か自分と共通するところがあるように感じました。視野を広げ、全体を見ていく中で問題点を探り出すということです。科学を細かく分析していくことだけにこだわると、本来の目的とずれが生じる危険性があるということです。

セリエは、『計画的な予測ではなく、直感的感性による推測を軽視してはいけない』と述べています。そして『科学における人間の最も知的な活動の、最初の、しかも最も決定的段階が、曖昧な直感に依存している。発明と解明があり、発見に必要な資質と解明に必要な資質とは異なるものである。そこには二人の人間が存在する。

一人は、自然の動きに対して大体において直感的感性を働かせる、つまり諸々の観察の背後に潜む重要性に対し、また広い視野の中での相関について鋭いセンスを持って臨む人・・課題発見者である。もう一人は、これまで知られているところから出発し、それを解体して、その構成とメカニズムを理解しようとする人・・課題解明者である。』

私は、きっと課題発明者なのだろうと思いました。セリエは『細かいところに注目すればするほど、予期せぬ「周辺視野」による発見のチャンスも少なくなる。-木を見て、森を見失うな!-』と、忠告してくれています。

我々指導的立場に立つものは、広い視野を持って物事の解決に当たらなければならないのだと再認識しました。トレーニングにも、リハビリにも、そして指導方法にもいろんなテクニックがあります。それをたった1つの手段やテクニックだけで、最大の効果を獲得することなんて無理なことです。

どれだけ多くの材料をそろえ、それを何十、何百、何千通りに組み合わすことのできる技量が、その道のプロとして要求されるということです。何十、何百、何千、組み合すことのできる材料には、知識だけでなく、実践的テクニックも含まれますし、話し方、言葉がけなども重要になりますし、人間性も要求されます。

けっして『偉い』人間ではないのです。『相手のために、最大の援助をしてあげよう』という気持ちがなければ、信頼関係も結果も生まれません。また、相手の努力も引き出せないでしょう。

そして、トレーニング、リハビリ、テクニックの指導において、何よりも必要なことは、その人の動きを読み取ることです。パフォーマンスの問題にしても、怪我の問題にしても、その動きが、その人にとって理想でなければ、また正常でなければ問題は解消されていないし、当然目的を達成することはできません。パフォーマンスの停滞や怪我をしたり、怪我から復帰できないということになるでしょう。

現在、多種多様の講習会が開催されています。しかし、1つや2つの講習会だけで全てが把握できたような錯覚に陥るのが現実だと思います。たった1つや2つの専門知識、テクニックだけではどうにもならないのです。相手は一人一人違うのです。

様々な知識を、まるでピラミッドのように組み立てることができたなら、本当のその道のプロになれると思います。1つのことについて深く追求することは、課題究明者であり、研究室での実験にこだわる人たちです。我々実践的立場にいる者の役割は、これとは違います。

セリエの本を読んで、自分自身の立場は、トレーニング、リハビリテーション、指導法、トレーニング計画などにおいて、最適な組み立てをするための課題発見者であると肝に銘じ、努力していきたいと思いました。

最後に、セリエは、研究における4つの段階として、次のような段階を上げています。

  1. ぼんやり見ている段階
  2. ハッと気がつく段階
  3. 課題の発見
  4. 課題の解明

*感性、直感、閃きというのは、何かがあるのです。大切にしたいものです。