2004年 2月 の投稿一覧

『なみあし』の本を読んで|ニュースレターNO.089

『本当のナンバ常歩(なみあし)』(スキージャーナル 2004)という本が先般発賣されました。著者は久留米工業高等専門学校助教授の木寺英史で、剣道におけるなみあしの研究をされている方です。

二軸理論で言う『常歩(なみあし)』の命名者でもあります。後半は常歩(なみあし)による剣道について書かれていますが、前半は『ナンバ』について解説の解説と常歩(なみあし)を考えつくまでの経過を書かれています。

全体的な視野に立って考察されたことがよく分かりますし、物事のとらえ方についての示唆を与えてくれる内容でもあります。私が指導者に話すこととよく似た内容が多く、非常に参考になる本だと思います。

そこで、皆さんに読んでもらいたいところをピックアップしてまとめてみました。

まず「なんば」の誤解ということで、次のように解説されています。

『私は「なんば」について書かれた文献に目を通すたびに矛盾点を感じてきました。

まず、昔の日本人は行進ができなかったということを取り上げてみましょう。先に述べたように、当時の日本人が音楽にあわせて行進ができなかったというのは確かであるようです。これは、先に尐し触れましたように明治政府がとった一連の教育政策をみてもわかります。

森有礼が初代文部大臣になったのが1885年(明治18年)、小学校令の公布が86年(明治19年)、教育勅語が90年(明治23年)に発布されています。しかし、文部省はこれらの法的整備に先立って79年(明治12年)には、米国帰りの伊沢修二を文部省音楽取調掛に任命しています。

伊沢はアメリカ人メーソンを招聘して「文部省唱歌」を創り、その取調掛が85年(明治18年)に音楽取調所に昇格し、さらに87年(明治20年)には東京音楽学校となって伊沢が初代校長になります。

そして、文部省がこれもの施策を急いだのは、軍隊として洋式軍隊を選んだことと関連があるようです。明治政府は、子どもたちが整列して一定のリズムで行進できるように体育訓練するために、唱歌を作ってその補助手段としたというのです。そして、武智倫によれば当時の日本人が音楽にあわせて歩けなかったのは、その歩き方が「なんば」であったためとしています。

しかし、これを安易に関連づけていいもものでしょうか。確かに、江戸時代までの日本人の歩き方より、膝を上げ反対側の手を大きく振る西洋風の捗き方が行進に向いているということは言えるかもしれません。しかし、「なんば歩き」は拍子に乗っては進めない歩き方だったのでしょうか。

日本人が行進できなかった主な原因は、歩き方にあるのではなく、2拍子または4拍子の音楽をそれまで体感していなかったことにあるとは考えられないでしょうか。当時の多くの日本人にとっては、洋楽の拍子はほとんど初めて耳にするものであったはずです。これらのリズムに体の動きを一致させるということは、歩行に限らず困難なことであったはずです。

近代軍隊のような行進はなくても、日本には参勤交代という制度がありました。宿場への出入りの際は、掛け声とともに、一糸乱れぬ行進をしたことが伝えられています。一種のショー的要素があったともいわれていますが、掛け声とともに進んだということは、ある拍子に体の動きをあわせることができたということです。

このような事例を検討しますと、日本人が行進できなかった主因は、歩き方ではなく、洋楽の拍子に動きをあわせる訓練をしていなかったことにあるように思えてきます。』

次に、「なんば歩きは同側の手足が前に出る」ということについて次のように解説されています。

『これらの根拠は浮世絵をはじめとする動きの中の「静止画」によるものです。これらの「静止画」を見ると確かに同側の手足が前に出ています。しかし、このような「静止画」を見るときには注意が必要です。動きの中でとらえる必要があるからです。

同側の手足が前に出ていたとしても、それらが同方向に動いていない場合もあるということです。実際に動いてみると一目瞭然ですが、普通の歩き方であっても人によって手足が振られるタイミングは同じではありません。そのような中の動きをコマ止めにすると、同側の手足が前に出ている場合があるのです。

・・・・ このように、「静止画」から動きの本質を見分けるのは非常に難しいのです。』

そして、「なんば歩き」は左右の半身を繰り返して歩くという動作について次のように考察されています。

『武智氏をはじめ、「なんば歩き」を左右の半身を繰り返す動作であるとしている根拠は、「なんぱ」の姿勢にあります。「なんば」の姿勢とは「単(ひと)え身」です。「単え身」とは半身です。

半身の解釈も武道などのそれぞれの流派で解釈が違い、完全に相手に対して直角に体幹を向けてしまうことを半身という場合もありますが、ここでは、それほど極端ではなく同側の足と肩がある程度前方へ出ている姿勢を半身ということにします。右自然体、左自然体と同意です。

武智氏およびそれを引き継ぐなんば論では、まず日本人の基本姿勢を半身であるとします。なぜならば、日本人はもともと農併民族であり、その労働に必要な姿勢は半身であるからとするのです。

この論理を「原初生産性」といい、個人個人がたとえ水田耕作から遠ざかっても、以後長くその民族の身体所作を支配すると、三浦氏は主張しています。この「原初生産性」の有効性についてはともかく、農耕民族の労働的姿勢の基本が半身の姿勢であるということは異論のないこととして進めましょう。

問題はここからなのです。さきの引用文中にあるように、武智氏は、日本人は歩行の時も農耕のときの基本姿勢を崩さず、「右足が前に出るときは、右肩が前に出、極端にいえば右半身が全部前に出る」としています。

この武智氏の論を以後のなんば論は見事なまでに引き継いでいきます。そして、日本人はそのような歩き方をしていたから「走れなかった」とするわけです。左右の半身を繰り返すという歩き方を試してください。確かに、歩くことはできても走れません。さらに武智氏は、

「ナンバ歩きに手を振るという説明は正しくない。農民は本来手を振らない。手を振ること自体無駄なエネルギーであるし、また手を振って反動を利用する必要が農耕生産にはない。稲は一定の場所から動かないし、走って追っかけるような生産行動は、ぜったいにない。 (舞踊の芸)」
としています。

さて、このように「なんば歩き」が右右の半身を繰り返すというものであるとするならば、いくつかの矛盾点が出てきます。まず、「なんば」は走れないとするならば、飛脚や駕篭かきはどのような走り方をしていたのでしょうか。武智氏は飛脚は「なんば」の姿勢のまま走ったとしています。

先の「片踏み」のことを言っているようにも解釈できますが、それならば農民も飛脚のように速くなくても「片踏み」で走れたはずです。武智氏は、
「農民たちの動作の基本となっていたのはナンバの動きであり、この動きからは戦闘に必要な機敏な動作が生まれてくるはずはなかった。

今日ナンバの動きは、ほとんど絶えてしまっている。剣道の動きは、ナンバの動きだが、これも現代人にはなかなか難しいようである。 (演劇伝統論)」と述べています。

しかし、この文章も首を傾けたくなります。「なんば」の動きが機敏な動きの基礎をなさないのに、剣道の動きは「なんば」であるとしています。剣道の動きは機敏ではないというのでしょうか。逆に、剣道をはじめ武道の動きが「なんば」であるとすれば、「なんば」はもっとも合理的な身体操作の基礎となる動きであるはずです。

私たちのように身体運動を専門とする立場からは、残念ながら武智氏のなんば論とそれを引き継いだものには疑問を呈せざるを得ないのです。

さらに、現在のなんば論では江戸時代の日本人の歩き方が、明治政府の近代化政策により不連続に変化したとしています。しかし、それまでの日本人が左右の半身を繰り返すというよ現在の歩行の原理とは相容れない歩き方をしていたとすれば、明治政府の政策によってそれほど短期間に、無意識に行われる歩き方が変えられるとは考えにくいのです。

このように考察していきますと、そのような傾向はあったものの、左右の半身を繰り返すというなんば論は再考する必要があると思われます。

私は、「なんば歩き」が左右の半身を練り返すというのは誤解であるとの仮説を立てています。この誤解の原因は、これまで「なんば」について語られてきた特性を安易に結び付けたところにあると思われます。

すなわち、なんばの特性であるとされている「なんばの姿勢は半身である」という事項と「なんばでは同側の手足が同方向に動く」という一つの特性を結びつけたために、「左右の下身を繰り返す」という「誤解」が生じたと考えられるのです。半身という姿勢を動きとしてとらえたことに問題があるのです。

さて、「なんば」の動きが合理的身体操作の基礎であるとするならば、その原理で成り立つ歩行は「左右の半身」を繰り返すような動きではないことになります。ここから、私たちの「なんば」を探求する旅が始まりました。』

非常に興味深い内容が続きます。もっとご紹介したいところもあるのですが、この辺りにとどめたいと思います。他に指導上の「主観的」と「客観的」認識の違いについてや、二軸を操作した走歩行(運動)を「常歩(なみあし)」と名づけるに至った経緯についても書かれています。

そして、右利き・左利きに関係なく、股関節は右より左に体重を乗せやすいという特性があるという新しい発見もありました。このことは現場での指導に大いに参考になるものです。全体に読みやすくなっており、「ナンバ歩き」そのものの考え方を整理するにはよい本であると思います。ぜひ一読されることをお勧めします。また感想をお聞かせいただければと思います。

コオーディネーショントレーニングの考え方|ニュースレターNO.088

トレーニングジャーナルの2月号に「コオーディネーション・トレーニング」の特集がありました。特集は3部構成で、第1部は鳴門教育大学の綿引氏が「コオーディネーションを考える」としてコオーディネーションの本質について書かれています。

第2部は「コオーディネーション・トレーニングの実践的課題」として徳島大学の荒木氏が実践における課題について書かれています。そして第3部は、同じく荒木氏が「コオーディネーション・トレーニング-実技編」として実際のコオーディネーション・トレーニングの方法について解説されています。いずれもワークショップの講演と実技からの紹介のようです。

綿引氏のコオーディネーションの本質のところも荒木氏の実践的課題も興味深いもので大切な理論編といえるものです。まだ読まれていない方や、読んだけれどよく分からなかった方はもう一度読んでみて下さい。

大事なことがたくさん書いてあります。実は今回の記事で、私が一番参考になったのは最後にあります質疑応答の要約のところでした。先の内容を理解していれば本当に面白い内容ですし、とレーニングに大いに役立つものです。すべては書けませんが、指導者にとって参考になる部分を上げてみましたので、その意味をよく考えながら読んでみて下さい。解答はすべて荒木氏によるものです。

Q:運動中の音に対して、色とか味をイメージするというのはどういう意味?

人間の感覚というのは、光が当たったときに、たまたま聞こえた別の音とか、温度というものを捉えています。人間の脳は、光が見えたときに80%は光で処理するけれども、残りの20は周りの雰囲気などを含めて覚えようとする能力かあります。それは昆虫と違うところです。

これを意識的にすればするほど、学習というか、形をつくりやすくなる。例えば、記憶力が優れた人というのは、文字を見たとき、その文字が書いてある画用紙の紙触りとか、蛍光灯のランプの色とか、そのときの状況を全部吸収して理解しようとします。そういう感覚を能動的に処理するため、意識的に常に行っておくということです。

例えば投げる練習をやるとき、投げることを100回やるよりも、投げることと反対の練習を20回やったほうが早く効果があります。だから、ジャンプする練習は着地の練習を先にやる。投げる練習は飛んでくるボールを受ける練習を先にやる。

こうして、本来やるべき動きを何度も再現するより、逆の動きをやったほうが運動をつくっていきやすい。そういう原理があります。運動では何かを発揮するよりも、そのときの感覚を求める動き、感覚のほうが先に興奮しているということがあります。コオーディネーションでは事前に感覚で予測したことに合わせるようにしています。

Q:今、話題の「ナンバ走り」をどう解釈する?

「ナンバの走り」と表現すると、同じ側の手と足を出すという「ナンバ」歩きが強くイメージされますが、結局、肩と腰をしっかり使えば走れるので、手を振ってエネルギーを使う必要はないということです。要は、体幹の動き、肩から骨盤の動き方が最も重要な点で、手と足とが揃うかどうかは大した問題ではない。

骨盤がずっと前に出てくれば、肩が全然動かない現象が出てきますので、いかにも安定した感じが出てきます。このように骨盤と体幹の捻じれ、バランスがとれているということが本質です。

Q:トレーニングでバランスの部分が入っていましたが、ウエイトトレーニングで体幹のトレーニングをやったときなどに、この練習を混ぜてやるのか、ウエイトトレーニングはウエイトトレーニングとしてやったほうがよいのか?

大原則は分離した発想は持たないほうがいいということです。筋力を発揮するとか、持久力の発揮というのは決してスキルと無関係ではありません。

つまりコオーディネーションするのは、いろいろな反応であるとか神経系の話が出てくるようだけれども、何をコオーディネートするのかと言うと、筋線維の肥大や筋力の発揮とかとものが重要なファクターにはなります。

だから筋力を高めて筋肉を肥大させようというと、筋肉を取り出して、いろいろなことで刺激を与えたくなるだろうけれども、どうやって筋力を高めるかと言うと、それは動きをどうつくるかという過程です

だから、例えばベンチプレスをやるにしても、バーベルを挙げるにしても、単純にその筋肉を肥大させようということではなくて、どうそれを使うかという話です。

私はよく言うのですけれども、日本では筋力は高ければ高いほどいい、持久力もレベルが高ければ高いほどいいと考えられがちですが、それは全く逆で、筋力を高めないでいかに強い力を発揮して、持久力を高めないでいかに持久力を発揮できるかという発想、それは正に動きのつくりです。

栄養があるという牛のレバーだけを食べるよりも、栄養がないと言われている牛の皮となんとかを一緒に食べたほうが栄養効果がはるかに高い。つまり複数のものの組み合わせをするのが高いレベルで、ケガがない一流選手というのは、やはりバランスがとれている。

では、現実に筋力トレーニングをやるときに、どういうことに注意しなければいけないかと言うと、一軸の動きのトレーニングは避けたほうがいいということです。どういうことか言うと、バーベルを挙げるとき、ある関節角度から挙げます。

でも、人間は何も言わないでも一軸でやろうとしないから、2回目に挙げたときには、腕を曲げてみたり、捻ってみたりします。バーベルを挙げるとき、同じ軸ではなくて、2回目には体を曲げてみたり、もっと言えばバーベル自体のバランスを崩してみたりして行う。バルーン(ボール)に乗ってウエイトトレーニングをやることなどは当然必要なことです。

それからおもりにしても、バーベルを挙げるときに右と左のバーベルの位置などを不安定にしてみたり、何よりもともかく単純に挙げるだけでなく、左右に動きをつけて挙げるというふうにすることが、神経には非常に大事です。

私はどちらかと言うと、動きつくりにおいては、おもりを使わないで、手動負荷(徒手抵抗)といって手の負荷を推奨するほうです。人間同士、手で、あるいは足で動かそうとするときは、機械と違い、ある特殊な振動で揺れます。

機械の動きは一軸ですが、人間同士で向き合って、腕を押したりすると皮膚と皮膚の反射で揺らぎが起きます。これが神経には「これは物じゃない」というシグナルになり、微妙な動きをするから、それに反応しようとします。

そのわずかな動き、それにどう反応するかが大事なのです。多分、日本で行われているウエイトトレーニングの多くは、その意味で一軸だけに刺激を与えるという旧式のやり方ではないかという気もします。筋力トレーニングは筋肉を肥大させると同時に、その筋を支配している神経に刺激をどう与えるという発想がなければ絶対意味がないと思っています。

Q:大学でボートをやっています。ボートの漕ぐ動きに合ったトレーニングというのは?

例えば筋線維が4本あって、こちらは2本しかないとします。しかし、4本がそれぞれがずれて収縮したとします。一方2本だけの筋線維でもその2本が同時に団結して収縮すれば、4より強い。これが筋の同期性であって、筋力トレーニンクをするうえでは、どうやって一瞬の少ない筋線維で同期的な構成をするかというのが、最近の考え方です。

具体的に言えば、一瞬の力を「カッ」と入れる練習では、力で入れたあとに緊張を取る練習からやらなければいけない。例えば一番簡単な方法を挙げてみましょう。

腕相撲をするように、手と手を合わせて、力を抜いたら抵抗をすぐにやめて下さいと言う。筋出力の立ち上がりも強く上がって、力を抜いたときに速く抜けるという状態をつくる必要があるわけです。

例えば、剣道で言えば当った瞬間に、打ち抜かないで引く感じです。ボートでも力を入れて引いたから、最後まで引ききらずに途中で力を抜いて戻す。最初に力を入れて、「パッ」と抜いた瞬間に、筋が同時に収縮します。力を一瞬で出すということと、力を一瞬に抜くという練習をしなければならない。

ところが、次の問題が起きます。ほとんどの筋が同期的に放電し始めると、そのときにケガが起きやすくなってくるということです。なぜ、バラバラに筋が収縮するかと言うと、ケガを起こす可能性かあるから、一斉に放電するのを少し抑えるからです。だから逆にこういうトレーニングをしていくと危険性も出てくるわけです

だから、こういうトレーニングをするときには、一般の筋力トレーニングでの負荷よりも弱い負荷のほうがよいと思います。筋肥大ではなくて、動きづくりが先行していているからです。まず動きづくりを先にし、それに応じて筋の肥大や神経の要素が決まってくるということだと思います。

つまり神経の動員をいかに一瞬の間にできるか、またそれを解除することができるかが大事になります。

例えば最大筋力の75%を発揮してくれと言われても、普通はできませんが、非常に優秀なスポーツ選手は、何%の力を出せと言われれば、驚くほど分化能力があって、正確に出します。これは、それだけ神経の配列を自由に変えられるということです。だがら筋電図をとって、いろいろな波形をずっと調べてみると、優れた選手ほど、強い力と弱い力を発揮したときには違う筋線維が動員されているのがわかります。無駄な動員はしない

ところが運動をあまりしないと、強い力でも弱い力でも同じような筋放電が生じる。スポーツにおいて、筋を鍛えるというのは、動きをつくるということです。筋力トレーニングは筋力トレーニング、スキルトレーニングはスキルトレーニングと分けてやらないということです。

以上の内容から筋力トレーニングの方法について重要な示唆を与えられています。最大重量に挑戦していくことが、そのままパフォーマンスの向上に直接結びつくものではないということを示唆されているわけです。

私自身も現在スプリンターに筋力トレーニングを指導しておりますが、また高校野球の選手たちにも筋力トレーニングを指導してきましたが、重量負荷ではなく、身のこなし、身体の使い方、力の入れ方・入れるタイミング、入れる程度、力の抜き方などについてその大切さを教えております。筋力=重いもの、高負荷のトレーニングという図式の危険性はこれまで感じてきたことです。

私の指導理念である「楽な」「リラックスした」「スムーズな」動作の重要性を解説してもらった気がしています。ぜひ特集をお読みください。指導の考え方、筋力トレーニングの考え方が変わると思います。またコオーディネーションは、コオーディネーションとして独立したものでないことも理解できると思います。