2006年 12月 の投稿一覧

2006年を振り返って|ニュースレターNO.158

今年もあと数日を残すだけとなりました。今年は、長期戦線離脱という状況でしたが、10月からは元のペースに戻れました。昨年の最後のニュースレターを書いているときには、なんら異状はなかったのですが、年が明けてからバクハツしたという感じです。

心臓弁膜症の手術ということで40日間入院しましたが、その中でいろんなことを体験できたり、考えることもできました。普通は、手術のことを考えるのでしょうが、手術に対する不安は全くなかったので、ただただ早く手術をして、早く退院したいという思いだけでした。おかげさまで、手術もうまくいき、半年たった検査では、心臓の機能も正常以上に回復しているという結果が出ました。

10月からは、学生の教育に力を入れています。週に2回5時間目をつくって、特別講習を行っています。冬休みに入ってからも特別講習を行っています。生活のためにアルバイトに行かなければイケない学生もいますが、20名近くの学生が参加しています。

長く継続していることで、授業の中では習えないいろんなコツ・ポイントを理解して身に付けてくれているようです。また、コンディショニングやリコンディショニングの考え方、物事の考え方も同時に理解できてきたようで、頼もしい限りです。授業は、1月いっぱいで終わりますが、その後も学生の希望もあり、週に1~2回のペースで継続する予定です。

ようやく、私の弟子といえる卵たちの形が見えてきた感じで、この先が楽しみです。おかげで、いろんな競技スポーツのチームから声を掛けていただき、合宿や試合など、実践で活動させていただいており、ありがたいお褒めの言葉をいただいております。

まだ、彼らは一年生ですので、あと一年もっと知識、実践力、人間性がレベルアップするように教員ともども努力していく所存です。彼らが卒業して現場に出るようになったとき、私の学校の存在が特別なものである・本物の学校であるということが証明・理解されるんだと思います。「楽しみ」という一言です。

さて、今年最後のニュースレターは、私の雑記帳からの紹介です。11月から12月の1か月の間に、電車の中で書いたある日の綴りです。ただ、思い浮かんだままに綴ったものですが、1ヶ月でA4で50頁以上になりました。ご希望の方がおられましたら、お知らせください。

『高校のとき、私はある先生から人間は振動を足元から受けると、頭の働きがよくなると聞いたことをいまだに覚えている。確かに、電車に乗っていて、立っていると、よくいろんなこと、アイデアが思い浮かぶ。最初に出した著書「スポーツ選手のためのウォームアップ・プログラム」は、ほとんど電車の中で書いたものである。

こうして、今ここに思い浮かんだコトを綴っているが、これも全て学校への行き来の電車の中だけにとどめている。座っているとき、立っているとき関係なく、思い浮かぶがままに書いている。何を書こうかということではなく、頭の中で次々浮かぶ言葉を、そのまま書いているに過ぎない。書き出した文字は、他の人が読めないようだ。私には、ハッキリすらすらと文章を読み上げることができるのだが。

実に楽しい時間である。頭の中で文章が出てくるのが先か、それともペン先が先かというぐらい、ほぼ同時に、文章を書いているのと同じタイミングで文章が続いていく。従って、これまでのところを読むと分かるが、重複した内容が結構多くなっている。

まさに、何かを書こうと目的を定めず、どれだけ自分の頭の中にいろんな思いがあるのか、それを抽出しようとしているだけである。もちろん、間違った考え方や思いもあるだろう。しかし、ここではそんな思いに悩む必要もない。一つのテーマに対して、いま自分はどう考えているのだろうかというところを出したいのである。

読んでいる人には、十分理解できるのかどうか分からない。当然である。人に読んでもらうために書いているのではない。また、納得させるために書いているのでもない。そのとき、その時に思い浮かんだこと、考え方、思いを綴っただけである。昨日も学生に、いま私はこんなことをしている。自分の頭の中を素直に文章にして出してみることが大切だ。

また、講習会や授業を受けて自分が感じ取ったこと、思ったこと、習得できたことを、一つの話し的に書き出すと、後で振りかえると、自分の捉え方、考え方がどうだったかよくわかる。

私の学校のような専門学校では、こんなことが非常に大事に思えてきた。机の前で話をする、コンディショニングルームで実技をする、何れも学生に教えているわけであるが、問題は学生が何を学び取ったか確認することである。人は誰でも1時間、1日、1週間たてば、忘れていくことのほうが多い。また勘違いしていることも多い。そういったことをなくすことが、習ったことを身に付ける、本当に習得できることになるのではないだろうか。

では、どうすればより確実に教えられたこと、習ったことが身に付く、役立つのだろうか。私は、講義の形態を考える必要があると思う。その日に教えたこと、教えられたこと、習ったことを確実に記録して残していくことである。そのためには、自分の学習Noteをつくることである。

通常なら、今日習ったことの復習を家に帰ってするわけだが、専門学校に通う学生の多くは、何らかの理由であるバイトの必要がある学生が多い。従って、家に帰って復習するということは難しい。そうであれば、授業時間内でやれないだろうか。最後の20分でも30分でもよい。Noteに今日教えられたこと、習ったこと、分かったこと、感じたことなどを口語体でいいから書く。体裁は気にしない。

自分で読んでわかるようにし、自分のための「丸秘Note」にする。そうすれば、毎日習ったことが確実にわかるし、残すことができる。見直せば、自分が勘違いしていたことに気が付いたり、ポイントを間違っていたことに気が付ける。卒業したときに役立つ「丸秘Note」ができるわけである。

習いっぱなし、教えっぱなしではいけない。また、教える側にとっても、そのNoteのまとめ方というか、内容を評価してやればいい。1回のテストの点数で評価するよりいいだろう。そのNoteを見れば、教える側も何を教えたのか、何を教えていなかったのか、間違って教えていたことにも気づく。

両者にとって役立つはずである。教える側にとって、自分はこのように言ったと思っていても、間違って言っていたりする事がある。100%正しい、正確に言っていることはまれかもしれない。気づかないことは多い。

広辞苑から:テストとは、試験。検査。特に、学力試験。一般に、考えたことや試作品などを実際に試してみること。

試験とは、ある事物の性質・能力などをこころみためすこと。どれくらい理解したかを調べ、学業成績の優劣を判定すること。問題を出して答えさせ、及落・採否を定めること。

記憶ほどあいまいで怪しいものはない。確かなところも、もちろんあるが、昔の話を友人としていると、同じ場面を思い出していても、かなり互いに記憶の差がある。そのとき、その時代で感じたことが、何十年立った今、そのとき感じたことがそのまま残っている。写真そのものである。小学校のころ、生徒数は3000人もいた。

それで運動場も広かった。そんな思いが今まであったのだが、あるとき、その学校の横を電車で通り、その運動場が見えた。すると、当時記憶していた広さとは程遠いほど運動場は狭かった。小学校の机やいすもそうである。当時は大きかったと思っても、今の体格ではもちろん小さい机や椅子で授業を受けたのである。

あまり自分の記憶に頼ることは怖い気がする。一時のイメージがそのまま残る。時代が変わればそのイメージもそれにつれて変わっていけば問題はないのかもしれないが、自分では明確・確かだと思っている記憶は、自分自身でも疑いを持って再確認する・していくほうがよいだろう。今は、映像に残すことができるので、見返すことがいくらでもできる。

何事に対しても思い込みを避けるために、確認・再確認の癖をつけたい。それとともに、「そうだったかなあ」「えっ!」と思えば確認することである。』

それでは、皆さん、よいお年をお迎えください!

筋トレ盲信禁物|ニュースレターNO.157

もう12月、今年のニュースレターも残すところ後一回となりました。今回は、少々不愉快なことを紹介しましょう。私もついつい頭に来たような文章になってしまいました。それは、先月11月21日の毎日新聞夕刊に掲載された「筋トレ盲信禁物」という記事です。これを書いたのは、社会人ラグビーの現役選手です。まずは、その記事を紹介しましょう。

『筋力トレーニングを始めたのは18歳のときだつた。筋肉痛になりながらもバーベルの上げ下げを繰り返しているうちに、身体が大きくなって持てる重量も増える。成長過程にあるという強い手応えを感じることのできる楽しい練習だった。

その後、プロテインやさまざまなサプリメントが開発され、栄養学も教わる。練習後にはプロテインを飲み、普段の食事ではなるべく揚げ物を口にせず、炭水化物をとり過ぎないように注意を払うようになった。

筋トレによって意識的に筋繊維を破壊し、たんぱく質を効率よく摂取して修復を促す。ぐっすり眠ることで十分な成長ホルモンが分泌されて筋肉が超回復する。こうした一連の過程が科学的根拠に基づいた練習方法として、ここ10年ほどで定着した。今では、筋トレがケガを未然に防ぐ、という不文律が信ぴょう性を得るようになった。だが、本当にケガは減り、身体能力は高まったのだろうか。

トップアスリートがケガによる戦線離脱を繰り返す現状から、疑わざるを得ない。能の世界では、80歳を超えても力強く、悠々と舞う能楽師がたくさんいるという。高齢になるにつれて筋肉量が落ちるにもかかわらず現役でいられるというのは、筋力に頼らない身体運用の賜物だろう。肩甲骨や股関節、身体の深層にある大腰筋など身体の各部位をフル稼働させ、力を一部分に集中させるのではなく、身体全体を有機的に動かすのである。

スポーツと能では求められる能力が違うと言うかもしれないが、現状をかんがみると、身体運用を根底から見直す必要性は疑う余地もない。完全にマネジメントできるものとしてではなく、対話をするように身体と向き合う。筋力を上げればいいと短絡的に考えるのではなく、感覚と言葉を頼りにして探っていく緻密さが求められている。』

この記事を読まれてどう思われたでしょうか。筋トレをしても怪我は防げないし、身体能力も高まらないと言いたいようです。私には、「筋トレをしても怪我を防げないではなく、怪我を防ぐことができなかったし、身体能力も高まらないではなく高まらなかった」と理解できます。果たしてそうだろうか。

ここには大きな問題が隠れているのではないでしょうか。それは、どんなトレーニングをしているのかわからないということです。どんな筋トレをしているのでしょうか。もっと突き詰めれば、どんな目的のために、どのような筋力トレーニングをしているのかということです。

筋トレをやって、怪我を防ぐことができないというのは、筋トレとはまったく関係のない話のように思います。それはスキルの部分に関係すると思うので、おそらくからだの動かし方に問題があると思われます。それは、技術コーチの問題であるのではないでしょうか。また、筋力トレーニングのやり方に無理があるのではないでしょうか。そうであれば、トレーニングコーチの問題だとおもいます。

言うなれば、技術コーチとトレーニングコーチの技量の問題であり、筋力トレーニングの問題ではないと思われます。怪我の問題とともに、身体能力も高まらないということも言われていますが、それこそ身体能力とはどういうものなのか、理解できていないとしか思えません。

身体能力のどの能力を高めるために、どのような方法を用いているのか、それを知りたいものです。おそらく、そこに問題があると思われますし、具体的な目標もなく、トレーニングが組まれているだけと想像できます。トレーニングの内容も紹介してくれれば、直ぐにわかることなのですが。

選手からこのようなことを書かれるようでは、技術コーチやトレーニングコーチのレベルがわかるというものです。とても恥ずかしいことであり、もっと本質を理解して指導に当たれるように努力しなさいといいたいものです。

このチームのトレーニングの指導者は、この記事を見てどう思われたのか、その反論も聞きたいですね。このような指導では、誤解というか理解不足も多いものです。例えば、速く走れるようになるには、走りこんでも速く走れるはずはありません。走るということ、速く走るにはどうすればよいのか、その根本的なこともわかっていないでしょう。

筋トレも、ただ重いウエイトを上げているだけではないでしょうか。そんなことで、筋量が増えたとしてもパフォーマンスに生かせるはずはありません。ここでも、ラクビーに必要な、ポジションによって必要な筋力やパワー、スピードというものがまったくわかっていないことがわかります。

レベルの低い指導者まがいの者に筋トレを教えられた選手たちはかわいそうですが、それが原因で「筋トレ盲信禁物」といわれるのは、この世界にいるものとして許せないものを感じます。いい加減な人間が、専門家と勘違いしてやっていることに問題があるのでしょう。

私も、筋トレ重視ではありませんが、用い方が問題なのです。選手の課題は何か、そこからスタートすることであって、その中に筋トレというか、筋力、スピード筋力・パワー、筋持久力のどの能力が必要なのか、またどんな筋力、どんなスピード筋力・パワー、どんな筋持久力が必要なのか、分かっていなければなりません。

筋トレといっても非常に幅の広いものであるということが、この選手もわかっていないのは明らかです。結論的に、指導者も選手も?マークがつけられますね。これではチームも強くならないことはよくわかります。やはり「結果は、嘘をつかない」のです。

平成スポーツトレーナー専門学校の学生にいいお手本の記事になりました。このようなことを選手から言われない本物のスポーツトレーナーを育てたいものです。やはり本物でないスポーツトレーナーが目立ち始めるのもこれからだと思います。要するに、ごまかしが聞かない、嘘はつけない現実が出てくるからです。

部分で捉える欧米の科学的トレーニング|ニュースレターNO.133

あっという間に12月に入ってしまいました。少し前に同じようなことを書いた気がしてなりません。一日が、1か月が、一年が加速して過ぎていく気がします。ゆっくり構えて準備する間もない気がします。そんなあわただしい日々をすごしていますが、ここのところ平成スポーツトレーナー専門学校の学生に手を貸してほしいという要望が後を絶ちません。

非常にありがたい御話なのですが、ご希望にこたえられるだけの人財がまだまだ育っていません。本当に世間に出しても恥ずかしくないスポーツトレーナーの素材が不足しているともいえます。やる気のある、希望に満ちた学生が足りないということです。

ただ、学校に来て、授業を受けて、帰りにバイトをしに行く。これではどうにもなりません。実践の現場を提供するのですが、お金がないために時間給の良いバイトにいかなければならない学生が多いことも現状です。

なんとかそのような環境で悩んでいる学生のために金銭面でサポートできる体制が取れるように努力しています。来年からはある程度サポートができそうな状況です。平成スポーツトレーナー専門学校では、インタ-ンシップなどの学外実習のために特別なお金を徴収していません。

無料で実習に出られるのです。そして、ほとんどの実習先では交通費などを補助していただいております。学生に金銭面での負担はほとんどさせないように努力しております。後は、それに答えられるレベルの学生が入学し、それに答えられる努力をしてほしいと願っております。

幸いにも来年の入学予定者は、ほとんどが前向きで、本物のスポーツトレーナーを目指している人たちですので、2年後、3年後が楽しみでなりません。

さて、今回のニュースレターでは、武道家が書かれた本の中から現代のトレーニングについて、どのような問題があるか、その考え方を改めるきっかけとなる情報を紹介したいと思います。著者は、沖繩空手の武道家である宇城憲治氏で、本のタイトルは「武道の心で日常を生きる」(サンマーク出版2005)です。

武道家といえば、ニュースレターでも何度か紹介している甲野善紀氏が出てきますが、身体の使い方について宇城氏の話は甲野氏よりわかりやすいものです。ここでは、トレーニングの考え方というか、身体を鍛えることの本質について書かれたところを紹介しますが、身体操作についても参考になるところがたくさん書かれています。上記の著書だけでなく、数冊書かれていますので興味のある方はさがしてください。

それで、トレーニングの本質はどこにあるかということですが、科学的という言葉が出てきて以来、「科学的分析」という言葉が使われるようになり、動作一つにしてもできるだけ細かく分解していくようになりました。

しかし、動作というものは、動きであり、それを細切れに分解してしまえば一つの静止画しか残りません。その静止画を分析しても隣の静止画とどのように継ぎ合わせればよいのか、画面上では修正できても本来の動きに戻ったときに、どのようにその細切れの動きを修正すればよいのか、むしろそのような修正は無理だといえるでしょう。

「部分を修正して、全体にまとめあげる」、「部分的に鍛えて、それを全体に継ぎ合わせる」、人間は動物であり、動く物ですから、全体的な動きを通じて強化し、全体の動きを通じて部分的に修正していくことが手段としてもやさしいはずです。

また、生体の感覚を大切にすること、その感覚を目安にして動きを覚えることが何よりも大切に思います。だからこそ、「リラックス」や「いいかげん」の感覚が大切なのです。どこかを意識して、集中してがんばることは避けなければならないのです。物事の考え方も、全体を眺め、あまりにも細かなことにこだわりすぎてはいけないということでしょうか。正に、「木を見て森を見ず」ですね。

それから、筋力についても、外面的な筋の大きさが必要なのか、それとも内面的な面から力を発揮するほうがよいのか、むしろ内面的なところから力を発揮する方法がわかっていないのが現場の指導者であるとも言えます。武術・武道は内面から爆発的な力を発揮することで、瞬間の戦いを制することができる技を身につけるために行われているのです。

我々人間が個々に秘めた潜在能力を遺憾なく発揮できるポイントが武術・武道に秘められているのです。それほど深いものですが、見方を変えれば「からだをどのように使えばどうなる」ということを知ることができます。我々はそれを知らないだけ、当然教科書や本には載っていないのです。

頭で考えるのではなく、からだを使って考えることも大事である。すなわち、身をもって体験すること大切さを知るということです。
『ここ二、三十年、スポーツ界では科学的に身体動作を分析し、競技やトレーニングに役立てる傾向が盛んになっています。

コンピューターでフォームを分析したり、筋電図を取って数値的に動作解析をする、最新のトレーニング器具を使って筋力強化をするといった取り組みを、一般には「科学的」と理解しています。動きのメカニズムを分析したり、数字を示されると納得するのが最近の日本人の傾向です。これはスポーツに限りません。

ウェイト・トレーニングによる筋力強化も、スポーツ選手なら当然すべき効果的な手段だと広く認知されています。もしいま、科学的といわれる取り組みやウェイト・トレーニングに異論を唱えたら、「時代遅れ」「非科学的な考え」と批判を浴びるでしょう。

けれど、人間のすべてを数字で表そうとする発想や、それで納得できたと思う姿勢こそ、人間の科学を軽視しているのではないか、むしろ限界があると私は感じます。

約30年間、最先端の科学と向き合い、開発の仕事に携わってきた私はその現場で、「科学とは、普遍性があって、再現性があって、客観性があるもの」と教えられ、肌身にしみてそれを感じて生きてきました。

研究室で語られる科学以上に、現場の科学は生きています。

ここまで私が書いてきた武道は、600年の歴史の中に見いだされた真理であり、その技は何度でも繰り返し再現することができ、しかもひとりよがりでなく相手も周囲の人も認める現実です。まさに「普遍性」があって「再現性」があって「客観性」がある、科学そのものではないでしょうか。

何となく、実験したり数字で証明することが科学だと思い込み、自分の身体の中で起こる真実に自信が持てなくなっているのです。

近代科学の欠点は、分析が主体になっているところです。欧米の文化は、部分を分析し、それを組み合わせて全体を作る考え方です。現代の日本は欧米以上に部分の分析に主眼が向けられています。しかし、部分をいくら分析し、部分を組み合わせても「全体」にはなりません。

いま科学的と呼ばれているトレーニング法や身体運動の理論は、今後解析が進めば進むほど、身体を全体として捉える観点からは説明のつかない事実がたくさん出てきて、矛盾をきたすでしょう。

最近は精巧なロボットの開発が進み、人や動物とほとんど同じ動きのできるロボットが開発されるレベルに達しています。「だから科学の進歩はすごい」という言い方もできますが、現代科学の粋を集めてもなお、人間の持つ機能をすべて再現することは不可能です。

それほど人間は複合的で無限の機能を秘めています。

たとえば、缶コーヒーの缶を何気なく持っただけで、人はさまざまな事実を感知します。缶の中にあるコーヒーの量や温度。もし異物が入っていれば、それを感じることもあります。これらすべてをロボットに感知させようとすると、さまざまな精密な機能を必要とします。その複雑な感知を人間は一瞬で、しかも、手の平で缶を持つだけで行っているのです。いちいち数字や研究データで説明されなくても、「わかるからわかる」のです。

人間には、感知した情報に対して的確に反応する判断力があり、時には瞬発的に、時には滑らかな動きで対応します。

最近の日本人は五感の働きが鈍っている、といわれます。それ以上に深刻な問題は、「人間が五感で感知した情報を常に統合し、人として一体である」という最も大切なことを忘れていることではないでしょうか。

最近の日本人は、筋力、心理、脳といった各部分を断片的に理解したり、改善しようとする傾向が強くなりました。各部分に絞ったほうがわかりやすいし、それで解決できる場合もないとはいいませんが、人を全体で捉える発想や姿勢が根本になければ、本質的な改善はできないと思います。最近は医学の分野でも統合治療の大切さが叫ばれています。

人間を部分的に捉える西洋式の発想に対して、日本では伝統的に身体を統一体として捉える発想を基本にしてきました。

心技体の一致。統一体による内面の気づきへとフィードバックのかかる身体自動制御システムを自分自身の中に築き上げることが大切です。自在の変化は、心技体が一体となってこそできる動きです。しかもそのレベルは、昨日より今日、今日より明日と変化し、成長します。そのことが時代の最先端を行く生き方になると私は感じます。

それを可能にするのが、武道が継承している古伝の型であり、その稽古の積み重ねです。

なぜ筋力を強化するのか?

私はウェイト・トレーニングをしたことがありません。そのかわり、型で鍛えています。

筋肉がないかといえば、かなりあるほうかもしれません。それも、ウェイト・トレーニングでつく筋肉とは、つく場所も、筋肉の質も違います。

たとえば、肘を曲げると、肘の外側にぷっくりと筋肉が盛り上がります。熱心に筋トレをやっているスポーツ選手でも、ここが盛り上がる選手にはまだ会ったことがありません。これは空手の型を繰り返すうち、知らず知らずについた筋肉です。空手で鍛えた筋肉は、場面や必要に応じて柔らかくも硬くもなる、自在の筋肉です。

最近の日本人は、競技力を左右する一番の要素は筋肉だともっぱら思い込んでいる節があります。確かに筋力を強くすれば部分的には力が強くなります。けれど、身体をひとつにして、根本的な力を発揮する、その根源(エネルギーや司令塔)はほかにあります。

多くの人が、各部分の筋力を強くすることばかりに目の色を変えて、心技体を一体化するメカニズム、一体化することで生まれる次元の違う強さや安定感に目を向けないのは残念ですが、そのメソッドに気がついていないから仕方がないのかもしれません。

筋肉をつけるのが目的なら、筋トレはその目的を満たします。筋力を強くすることが目的なら、その目的も果たされます。ただし、ここでいう筋力とはあくまで測定器が示す強さであって、実際の競技の中で同じ強さを発揮できるのか、目まぐるしく変わる実戦の場面で数値どおりの力が出せるのか、その検証はされていません。

すでに書いたとおり、統一体になっているかいないかで安定感が違うばかりか、内側からみなぎる本質的な力に極端な差が出ます。そこを踏まえず、測定上の数値だけを上げてもどれほどの意味があるのでしょう。筋力を上げるのが本来の目的だったのでしょうか。

まず真っ先に、筋力をつけることが本当にその競技のパフォーマンスを向上させるのか、素朴な検証が必要だと考えます。統一体という考えに立てば、それ以前に取り組むべき、もっと素朴で根本的な基本があることに気づくのではないかと思います。これはスポーツに限らず、普段の生き方、人生に対する取り組み方にも通じます。

有名な大学に入るのが人生の目的だったのか。幸福な人生を求めているのか。主客転倒してしまっている場合が、現代の生き方には多々見られます。

「メンタル・トレーニング」が重要だという認識も広がっています。心の間題だけ別にして取り組んだほうがわかりやすい感じはしますが、心と身体は密接につながっています。心技体が一致してこそ統一体が生まれ、最高の状態が得られます。心技体の一致を抜きにしてメンタル・トレーニングをやっても、本質的な成果は上がりません。

人という形を支えているのは心です。また心は、形に支えられています。心と形を別々に捉えていたのでは、ずっと本質は見えないまま成長できません。』