2008年 5月 の投稿一覧

人見絹枝誕生100年|ニュースレターNO.192

人見絹枝という名前をご存知でしょうか。オリンピックが近づくたびに出てくる名前です。オリンピックで初めてメダルを取られた方です。それも専門の100mと走り幅跳びではなく、やったことのない800mでそれも世界タイ記録で銀メダルを取られた方です。

その人見絹枝さんが誕生して100年を迎えられ、今年卒業学校の日本女子体育大学から「人見絹枝生誕100年記念誌 (日本女子体育大学2008)」が出版されました。偶然にも家内が卒業生であることから拝見することができました。これまで何冊か人見絹枝さんの本は読みましたので、そこには書かれていないところも多く見ることができました。

彼女の短い人生は、正に陸上競技と愛国心に盈ち溢れたもので、そのことが短命に終わったことにもつながっているように思います。

彼女の能力がいかに素晴らしいものであったかということは、競技性生起を見れば一目瞭然です。基本的には、陸上競技の全種目において日本記録を出し、世界記録も何度も出されています。当時の女性としては169センチととても大柄で外国選手と対等な体つきであったことが挙げられます。

それに今回始めて分かったのですが、100mと走り幅跳びで世界記録を出した選手がなぜいきないり800mが走れたのは400mでも59”0の世界記録を出していたことです。

今回ご紹介するのは、人見絹枝さんの短くも素晴らしい競技成績とオリンピックで800mを走ったときの気持ちを書かれたものです。彼女は、毎日新聞の記者としての活動もしており、多くの記事が残っております。それを紹介したいと思います。人見絹枝さんの著書については、「ゴールに入る(人文書房)」などがあります。一度読まれることを御勧めします。

年譜
1907年(明治40年) 1月1日誕生
1920年(大正 9年)13歳 岡山高等女学校入学
1923年(大正12年)16歳
11月4日 走幅跳:4m67cm(非公認日本新)
1924年(大正13年)17歳 岡山高等女学校卒業
二階堂体操塾(現日本女子体育大学)入学
10月5日 ホ・ス・ジャンプ:10m33cm(世界新)
1925年(大正14年)18歳 二階堂体操塾卒業
京都市立第一高等女学校で体育教師(3ヶ月)の後、二階堂体操塾へ
10月17日 ホ・ス・ジャンプ:11m625cm(世界新)
1926年(大正15年)19歳
5月1.2日 砲丸投(8lb):9m97cm(日本新)
大阪毎日新聞社に入社
6月5.6日 200m:27”6(日本新) 走幅跳:5m75cm(日本新)
7月8日 第2回万国女子オリンピック大会へ出発

8月4日 スウェーデンイエテボリ着
8月27-29日 第2回万国女子オリンピック
60m:8”0(5位)
100ヤード:12”0(3位)
250m:37”0(6位)
走幅跳:5m50cm(1位、世界新)
立幅跳:2m47cm(1位)
円盤投:33m62cm(2位)
8月31日 イエテボリ発
↓ 途中ハルピン、大連、旅順で歓迎会と競技会
9月29日 帰国(下関)
1927年(昭和2年)20歳
5月8日 200m:26”1(世界新) 立幅跳:2m61cm(世界新)
5月21.22日 400m:61”2
6月19日 100m:12”4(世界タイ)
10月19日 100m:12”4(世界タイ)
1928年(昭和3年)21歳
5月5日 400m:59”0(世界新)
5月6日 100m:12”4(世界タイ) 走高跳(三種競技):1m43cm(日本新)
5月20日 100m:12”2(世界新) 走幅跳:5m98cm(世界新)
6月1日 第9回アムステルダムオリンピックへ出発
↓ 6月16日 ロンドン着
6月23日 走幅跳:18ft4in(5m588cm)(世界新)
7月14日 220ヤード:25”8(世界タイ)
7月18日 アムステルダム着
7月28日-8月2日 第9回アムステルダムオリンピック
7月30日 100m:予選12”8(1位) 二次予選(4位)
8月1日 800m:予選 2’26”2(2位)
8月2日 800m:決勝 2’17”6(2位、世界タイ)
8月11日 アムステルダム発
↓ 8月11日 パリ着
8月18.19日 ベルリンで国際大会
9月20日 帰国
1929年(昭和4年)22歳
4月29日 三種競技(100m、走高跳、槍投):217点(世界新) 80mH:13”6(日本新)
5月19日 200m:24”7(世界新) 円盤投:34m18cm(日本新)
10月17日 100m:12”0(追い風参考) 走幅跳:6m075cm(追い風参考)
10月19.20日 100m:12”0
1930年(昭和5年)23歳
7月13日 槍投:37m84cm(日本新)
7月25日 第3回万国女子オリンピック大会へ出発

8月25日 チェコ プラハ着
9月6-8日 第3回万国女子オリンピック大会(雨)
60m:7”8(3位)
100m:予選通過、二次予選落ち
200m:予選、二次予選通過、決勝棄権
走幅跳:5m90cm(1位)
槍投:37m10cm(3位)
三種競技:194点(2位)
400mリレー:52”0(4位)
9月10日 プラハ発
↓ 9月11日 ポーランド 対抗競技会 60m、100m、走高跳、走幅跳、円盤投、槍投
9月13日 ベルリン 対抗競技会(雨) 100m、200m、走幅跳、槍投
9月20日 ベルギー 対抗競技会(雨) 100m、800m、400mリレー、円盤投、槍投
9月21日 フランス 対抗競技会 80m、200m、400mリレー、走高跳、走幅跳、円盤投、槍投
9月25日 ロンドン発
↓ 途中、シンガポール、香港、上海にて講演
11月6日 帰国(神戸)
1931年(昭和6年)24歳
4月 入院
8月2日 肺炎のため死去(午前0時25分)

身長169センチ、筋肉質で逞しい骨格をもっていたが、幼少の頃からよく風邪を引き、発熱したり頭痛を訴えていたという。脚気もあったという。

50m(6”4)、60m(7”5)、100m(12”2)、200m(24”7)、220ヤード(25”8世界タイ)400m(59”8)、
800m(2’17”4世界タイ)、80mH(13”6)、走幅跳(5m98)、立幅跳(2m61)、走高跳(1m45)、三段跳(11m62)、
砲丸投(9m97)、円盤投(34m18)、槍投(37m84)、三種競技(100m、走高跳、槍投)(217点)

*ゴシックは世界新か世界タイ、その他は日本記録

この一戦を……と/夢中に戦った八百米決勝

(八月二日)今日は大会第五日目 走り高跳びに木村さんと中沢さんが2点を得た以外に何ら芳しい成績を収め得ない。選手一同はフィンランドのヌルミ、カナダのウイリアムス等超人の活躍に心をいらだたせているのでした。例によって午前十時ザンダムの宿所の前には今日の跳び合いに出る織田、南部、住吉、私の四人を乗せた自動車が用意されました。他の選手はいつものように一同見送りのために門前に集まってきました。

誰から始めたか、ザンダムの朝の空気を破って君が代が始められました。次第次第に君が代がうたわれてゆく時、送られる者も送る者も知らず知らず涙が出てきた。織田、南部、住吉、私の四人に今日の責任を全うせよと言わんばかりにホテルの入り口に立つ日の丸が見えます。

涙と涙で送り出された四人はザンダムの町を遠く離れるまで一言だに相語ることもなくお互いに心の中では大いに覚悟する所があったのでした。走り高跳び、走り幅跳びの二つに失敗した織田さんも、百㍍で思わぬ負けを取った私も、今日戦わんで何の顔下げて日本の土地が踏めましょう……

このころめっきり崩れた五月雨のような天気も今日は幾分の風があるだけでカラリと晴れた上天気です。昨日八百㍍の予選を割合簡単にパスした私は今日の決勝に出ることをこの上なく何よりの頼みとしました。大きな希望と野心をさげてはるばる来たにかかわらず、百㍍の失敗は思い出しても腹立たしいほどのしくじりです。

八百㍍に出場するにしても一度も練習したことのない者が世界の舞台、八百㍍決勝に立つのですからいかに死を覚悟しながらも己の力に自信のない者がなんで安んじて戦いに臨めましょう。作戦も走法も知らない私はただベストをつくして倒れるまでだというこの外には何の勝ち味もありません。

百㍍に敗れた私をまだ神が見捨て賜わぬなら日本のためにこの一戦を心ゆくまで走らせて頂きたいと願ってみました。

「走れ! 走って倒れたら後は引き受ける」と言われた竹内監督の言葉によって会場に進んだ私は、自分の姿が今日に限っていやにみすぼらしく見えるような気がしてならないのです。百㍍に出場してまた八百㍍に出場する選手が他の国にもあるだろうか! 走りえない自分の力を知りつつこうして出場しなければならない自分の姿を人々はどう見るだろう。

フィールドの方には折から織田さん、南部さんの二人が私と同じ気持ちで三段跳びの真っ最中です。

八百㍍決勝のスタートは幸い第一コースを得て無事に切られました。

皆に教えられた通り、第一、第二のコーナーを押さえた私はバックストレッチに入るなりドイツのラドキに先頭を譲ったと同時に、スウェーデン、カナダ、ポーランド、アメリカと私の前方に出て第三コーナーを回るころは第六番目を走っていました。しかしまだ私の心は苦しみもなく、十分ゲームの成り行きを知りつつ第一周を終えて第一コーナーを出かけたころからまた体を立て直してスパートに移ったのです。

バックストレッチに行くと一気に第五、第四、第三を抜いて、第三走者の所に割り込んだが、すぐ後はカナダのトムソン、前方はスウェーデンのゲントゼールです。前方のゲントゼールは第二回万国女子オリンピックの時に千㍍で第二位を得た人です。

この人を恐れるよりさらに私の恐れたのは一歩後方にいるトムソンです。昨日の予選に二十三秒台で走っている人だし、カナダで二、三度二十二、三秒台を走っている元気一杯のまだ年若い人です。第三位を奪った私は六百㍍辺で三位になるとすぐ前方に進み出ようとするトムソンを出すまいとする私の体と二つは強く腕と腕をブッつけました。

引き続いて再度トムソンが前進を狙った時、並行したトムソンのスパイクシューズはトムソンの体がよろけると同時に私の右膝頭を引っかきました(しかしこれは後でわかったことです)。こうして二人の間には多くの観衆も見えなかったレースを繰り返していたのです。

第三コーナーを回って第四コーナーに移るころ、もう後方のトムソンに気を取られなくなった時、いよいよ最後のスピードに移ったがもうこの時脚は一寸も動かない「いよいよ最後は腕を振ることだ」と言われた言葉をそれでも覚えていた私は振った振ったただ腕だけを……第四コーナーを回って来るとはるか前方にいると思ったスウエーデンのゲントゼールが二㍍もない所を走っているのです。

この辺まで十分自分のレースを意識していた私は、いつスウェーデンを抜いたのか、いつ決勝に入ったのかさらに覚えていません。目がかすんですべて一色に見える中で毛布をやっと探し出して伏せる。たまらない腰の痛み……南部さんと織田さんの二人に助けられて一度は立ってみたが立てない。「織田さんが一等だ」ときかされて「日の丸が上がるな……」と次第次第にそれでも気持ちが軽くなって来る。

二等になったと聞かされてとうとう泣いた。二等が悲しいのではないのです。偽らぬ所六等になればと思っていたものが二等になれたとは自分ながらよく走れたという以外には何の欲もわきません。ああ、まだ運があったのだ、二等のところにゆらぐ日の丸を見ながら流れ出て来る涙をとめることができませんでした。

まだ、前のうれし涙の乾かぬ問にいよいよ何年前からの宿望であった優勝の声は織田さんのホップによって実現され、アムステルダムの中空高く日章旗は翻り君が代の声は大天蓋をゆるがすのです。

なんという恵まれた日でしょう。いつも乗る自動車も今日はいつになく早くアムステルダムの町を抜け出して風車の回る田舎道をザンダムの宿所さしてこの快報をもたらしながらひた走るのです。

(サンデー毎日1928年9月9日号)

オリンピックの旅9/ミリア夫人と語る

その夜、日仏両選手のみを交えた夕食がミリア夫人によって開かれた。いよいよ明日はパリを去るのかと思うとミリア夫人に別れることを急にはっきり意識した。そうだ、夫人と今晩は心ゆくまで語ってみよう、そして心ゆくまで甘えてみよう。

ミリア夫人のすすめるシャンパンで私はもう半ば酔いがまわっていた。こんなに飲まされたことはないのだ。ぐらぐら回っている心臓も、ミリア夫人のつぐお酒なら破れはしまい。破れてもそれで満足だ。私は急に思い出したように(実は言おう言おうと今度ミリア夫人の姿をプラハで見てから幾日思いためらったか知れなかった)

「ミリア夫人、私達は今日一切のプログラムを終わり今夜こうして夫人の側で食事をしているとすべて満足しています。こんなうれしいことはありません。

しかしまた明日お別れしなければならないかと思うと、また何ともいわれない寂しさにおそわれてまいります。日本の選手たちはもう近いうちにヨーロッパの土地から離れて故国に帰るのをどんなに喜んでいましょう……その半面まだ永年のあこがれであったヨーロッパの土地と、私からよく聞かされていたミリア夫人の温かいお手元から去って行くことを私と同じように寂しく思っていましょう。

一九二六年初めて夫人の温かい胸に抱かれてから四年の間、私のよき師としてまた慈母として終始育てられてきた夫人に対して、どれだけの感謝をささげていいかわかりません。ミリア夫人、私は今プラハのオリンピックを終わって、今日のパリの試合を終えたとき永年の競技生活から退きたいと思っています。

夫人はまたここでお叱りになるかもしれません。しかし競技生活は退くと申しましても、決して夫人を失望させるようなことはなく、今後日本の女子スポーツのため大いに働きます。私はここに夫人に対して改めて御礼申します」

大体こんな意味のことを話して席につくと、横の夫人は

「人見さん、そんなことを言ってくださるな、泣けてくるから」

夫人は半ば泣きながら私の手を固く握りしめた。食事がデザート・コースに入ると夫人は立ち上がって

「たいへんお疲れの日本チームの皆さんをして今日フランス選手と実に親しみのあふれた競技会を行うことの出来たのを感謝する。それにつけてもあの粗末なグラウンドでおわびのしようもないが、今度のときは立派なものをお目にかけよう。

しかし、あれがパリの女子専用のトラックであっ
たのですから、喜んでもいただきたく思います(中略)最後に人見さんに一言言いたいのは、最近しばしば人見嬢が引退の意思あることをほのめかされるが実にけしからんことだ。この若さで……自分の前にいる○○○○なんか三十二歳から競技を始めた人だ(プラハで八百㍍五等)どうかいつまでも世界のスポーツ界からその名を消してくれないように、くれぐれもお頼み申します」

夫人の言葉が強く食堂の中に響いた。二、三の選手が顔を見合わせて眉をひそめた。マダムの両眼に光っているのを見たとき、私はたえられぬ身の置きどころに困った。夫人はどうしても許してくれないのだ。次のロンドンにもまた私にやって来いというのであろうか。

私はもうこれ以上夫人に話を続けて、夫人の心を寂しくさせたくなかった。十二時近くであった、夫人と言い知れぬ別離の涙をのんで、言わんとすることも言い得ずにホテルを出たのは。

プラタナスの街路樹はもう葉が青いままで枯れ落ちてアスファルトの上をからから舞っていた。パリの夜はふけた。真夜中のエトワールは気味悪いほど薄白いもやに包まれていた。

帰途につく

パリ出発の日は朝から雨が降り続いていた。列車は出かかっているが、明朝はきっと行くからと言っていた夫人の姿が見えぬ。列車がホームをせつな離れる刹那、秘書の某氏が息せき切って駆けつけた。そして車窓から渡されたものは、夫人と木下先生と私とで写した記念写真と、六人の選手へのキャンディーであった。雨がますます強くなっていく。ぼんやり私は頭の中にとりとめなく夫人の姿を描くのであった。

ドーバー海峡を渡ってその日の夕方、一行はロンドン着。二日間の滞在でいよいよ故国への帰路を白山丸に託して九月二十五日ロンドンを出発した。三度の渡欧に一回の船旅の経験さえ持っていない私は、初めて一人前の洋行をした気持ちで船室へおさまった。そして三カ月の遠征の跡を反省してみる時がやって来たのであった。(完)

(1930年11月29日付大阪毎日新聞1面)

「サイズの原理」とトレーニング|ニュースレターNO.191

この連休は、北海道で過ごしました。まず2日に士別へ入り、3、4日は士別陸協主催の陸上のクリニックを行いました。晴天の中、朝から夕方まで、スプリント、投擲、ハードル・跳躍、そして長距離と続きました。中学生と高校生が対象ですが、体力のない中学一年生も頑張っていました。

楽しく、やれたと思います。そして、5日は札幌へ移動し、前回紹介した女子中距離選手の指導を午後と、翌6日の午前中の2度指導し、7日に帰阪しました。指導の中でどんどん動きがよくなり、大きな走り、スムーズな体重移動が見られるようになりました。何とか指導ができそうですが、いろいろ問題もあり、あせらず尐しずつ本格的な練習ができるようにして行きたいと思います。

同時に、彼女をサポートしてくれる人たちもできたので、うまく事が運んでくれたらと思います。何年ぶりかの本格的な選手の指導に入ることになりそうです。

さて、今回のニュースレターは、石井直方氏の「究極のトレーニング(講談社2007)」から参考になるところを紹介したいと思います。筋力、筋肥大の効果的な方法がよく分かります。方法は一つではなく、何が問題なのか、それを理解する上でも参考になると思います。

『加圧トレーニングは、負荷が小さく、量が尐なくとも効果的に筋が肥大するという、一見摩か訶不思議なトレーニング法といえます。トレーニングの指導者や実践者の方々の間には、私がこのようなことをいい始めたことに対するある種の戸惑いがあるようです。

というのも、私自身が現役選手のときには、きわめて高重量の負荷を用いてハードトレーニングをすることで定評がありましたし、研究者としても「いかにして筋に強い負荷をかけるか」を主張してきたからでしょう。

ところが、研究が進むにつれ、トレーニング効果のメカニズムは想像していたよりはるかに複雑で、たとえば筋肥大といった一つの効果を得るためにもさまざまなアプローチが可能だと思うようになりました。そこで、ここではどの教本にも載っていて半ば常識となっている”負荷と効果の関係”について、尐し違った角度から検討してみることにしました。』

『トレーニングを行う場合、その目的に応じて適切な負荷を設定しなければなりません。筋のサイズを増さずに筋力を高めるのであれば最大挙上負荷(1RM)の90%以上、筋を肥大させるとともに筋力を増すのであれば最大挙上負荷の80%前後、筋持久力を増すのであれば最大挙上負荷の60%以下というのが原則となります。

これは経験的にも多くの実験からも、おおむね実証されています。生理学的な根拠は十分に揃っているとはいえませんが、その一つに「サイズの原理」があります。

何度も述べていますが、ヒトの筋肉を構成している筋線維には、大きく分けて速筋線維(FT)と遅筋線維(ST)があります。これらを支配している運動神経は脊髄に1個の細胞体をもち、そこから軸索と呼ばれる突起を伸ばしています。軸索は筋肉の中で枝分かれをして、数百本の筋線維に接合しています。

1個の運動神経と、それが支配する筋線維の集団を、運動単位と呼びます。つまり、筋肉中には速筋線維を支配する運動単位と、遅筋線維を支配する運動単位がたくさん含まれています。

一般に、速筋線維を支配する運動神経は遅筋線維を支配する運動神経に比べ、細胞体が大きく、軸索も太く、支配している筋線維の数も多い、すなわち“サイズが大きい”という特徴があります。私たちが徐々に大きな力を出していくような場合には、まずサイズの小さな運動単位から使い始め、大きな力を出す段階になってはじめてサイズの大きな運動単位を使うようになることが、実験で確かめられています。これを「サイズの原理」と呼びます。

いい換えると、発揮する筋力が小さいときには遅筋線維から優先的に使われ、筋力の増大とともに速筋線維が使われるようになるということです。

これは、エネルギーを節約するために大変都合のよい仕組みですが、大きな筋力発揮に向いていて、肥大する程度も高い速筋線維をトレーニングするには、やはり最大挙上負荷の80%前後の大きな負荷を使うことが必要なことを示しています。』

『ところが、最近までのいくつかの研究から、次に述べるように「サイズの原理」にも例外があることがわかってきました。

 

(1)エキセントリック(伸張性)トレーニング

きわめて軽い負荷を用いてトレーニングを行うとき、筋の電気的活動を記録すると、負荷を上げ(コンセントリック)、引き続き保持する(アイソメトリック)動作では、負荷が軽いので確かに遅筋線維が使われますが、次に負荷を下ろす(エキセントリック)動作では、逆に速筋線維が使われることが報告されています。

つまり、エキセントリックトレーニングでは、負荷の大きさにかかわらず速筋線維が優先的に用いられることになります。

エキセントリックな動作をうまく制御するのは、神経系にとってむずかしく、身体を守るために急激な筋力発揮を要求される場合もあることから、収縮・弛緩速度の大きな速筋線維を使うのだろうと想像されていますが、詳細な機構は不明です。

 

(2)バリスティック(急速性)トレーニング

次に、きわめて軽い負荷を急激に加速する場合を想像してください。サルを用いた研究から、このような動作を訓練すると、遅筋線維をまったく使わずに速筋線維を使うようになることが示されました。このことから、急激な力発揮を行うトレーニング(バリスティックトレーニング)でも、負荷の大きさにかかわらず速筋線維を優先的に使う能力が高められると想像されます。

ただし、軽い負荷でもこれを強く加速するには大きな力が必要なので、“小さな筋力発揮に速筋線維を使う”ことでは必ずしもありません。(1)と(2)を合わせ、さらに速筋線維の使い方を練るのがプライオメトリックトレーニング(反動動作を強調したトレーニング)ということもできるでしょう。

 

(3)加圧トレーニング

加圧トレーニングでは、負荷がきわめて軽いにもかかわらず、筋の活動レベルは高負荷の場合と同じです。この理由として、血流を阻害した場合、低酸素状態でも十分分にはたらくことのできる速筋線維が、やむをえず使われるためだろうと私たちは考えています。

以上3種のトレーニングは、うまく行えば大変効果の大きなものですが、いずれも「サイズの原理」に対するアンチテーゼを含む点で共通するのが興味深いところです。』