人見絹枝という名前をご存知でしょうか。オリンピックが近づくたびに出てくる名前です。オリンピックで初めてメダルを取られた方です。それも専門の100mと走り幅跳びではなく、やったことのない800mでそれも世界タイ記録で銀メダルを取られた方です。
その人見絹枝さんが誕生して100年を迎えられ、今年卒業学校の日本女子体育大学から「人見絹枝生誕100年記念誌 (日本女子体育大学2008)」が出版されました。偶然にも家内が卒業生であることから拝見することができました。これまで何冊か人見絹枝さんの本は読みましたので、そこには書かれていないところも多く見ることができました。
彼女の短い人生は、正に陸上競技と愛国心に盈ち溢れたもので、そのことが短命に終わったことにもつながっているように思います。
彼女の能力がいかに素晴らしいものであったかということは、競技性生起を見れば一目瞭然です。基本的には、陸上競技の全種目において日本記録を出し、世界記録も何度も出されています。当時の女性としては169センチととても大柄で外国選手と対等な体つきであったことが挙げられます。
それに今回始めて分かったのですが、100mと走り幅跳びで世界記録を出した選手がなぜいきないり800mが走れたのは400mでも59”0の世界記録を出していたことです。
今回ご紹介するのは、人見絹枝さんの短くも素晴らしい競技成績とオリンピックで800mを走ったときの気持ちを書かれたものです。彼女は、毎日新聞の記者としての活動もしており、多くの記事が残っております。それを紹介したいと思います。人見絹枝さんの著書については、「ゴールに入る(人文書房)」などがあります。一度読まれることを御勧めします。
年譜
1907年(明治40年) 1月1日誕生
1920年(大正 9年)13歳 岡山高等女学校入学
1923年(大正12年)16歳
11月4日 走幅跳:4m67cm(非公認日本新)
1924年(大正13年)17歳 岡山高等女学校卒業
二階堂体操塾(現日本女子体育大学)入学
10月5日 ホ・ス・ジャンプ:10m33cm(世界新)
1925年(大正14年)18歳 二階堂体操塾卒業
京都市立第一高等女学校で体育教師(3ヶ月)の後、二階堂体操塾へ
10月17日 ホ・ス・ジャンプ:11m625cm(世界新)
1926年(大正15年)19歳
5月1.2日 砲丸投(8lb):9m97cm(日本新)
大阪毎日新聞社に入社
6月5.6日 200m:27”6(日本新) 走幅跳:5m75cm(日本新)
7月8日 第2回万国女子オリンピック大会へ出発
↓
8月4日 スウェーデンイエテボリ着
8月27-29日 第2回万国女子オリンピック
60m:8”0(5位)
100ヤード:12”0(3位)
250m:37”0(6位)
走幅跳:5m50cm(1位、世界新)
立幅跳:2m47cm(1位)
円盤投:33m62cm(2位)
8月31日 イエテボリ発
↓ 途中ハルピン、大連、旅順で歓迎会と競技会
9月29日 帰国(下関)
1927年(昭和2年)20歳
5月8日 200m:26”1(世界新) 立幅跳:2m61cm(世界新)
5月21.22日 400m:61”2
6月19日 100m:12”4(世界タイ)
10月19日 100m:12”4(世界タイ)
1928年(昭和3年)21歳
5月5日 400m:59”0(世界新)
5月6日 100m:12”4(世界タイ) 走高跳(三種競技):1m43cm(日本新)
5月20日 100m:12”2(世界新) 走幅跳:5m98cm(世界新)
6月1日 第9回アムステルダムオリンピックへ出発
↓ 6月16日 ロンドン着
6月23日 走幅跳:18ft4in(5m588cm)(世界新)
7月14日 220ヤード:25”8(世界タイ)
7月18日 アムステルダム着
7月28日-8月2日 第9回アムステルダムオリンピック
7月30日 100m:予選12”8(1位) 二次予選(4位)
8月1日 800m:予選 2’26”2(2位)
8月2日 800m:決勝 2’17”6(2位、世界タイ)
8月11日 アムステルダム発
↓ 8月11日 パリ着
8月18.19日 ベルリンで国際大会
9月20日 帰国
1929年(昭和4年)22歳
4月29日 三種競技(100m、走高跳、槍投):217点(世界新) 80mH:13”6(日本新)
5月19日 200m:24”7(世界新) 円盤投:34m18cm(日本新)
10月17日 100m:12”0(追い風参考) 走幅跳:6m075cm(追い風参考)
10月19.20日 100m:12”0
1930年(昭和5年)23歳
7月13日 槍投:37m84cm(日本新)
7月25日 第3回万国女子オリンピック大会へ出発
↓
8月25日 チェコ プラハ着
9月6-8日 第3回万国女子オリンピック大会(雨)
60m:7”8(3位)
100m:予選通過、二次予選落ち
200m:予選、二次予選通過、決勝棄権
走幅跳:5m90cm(1位)
槍投:37m10cm(3位)
三種競技:194点(2位)
400mリレー:52”0(4位)
9月10日 プラハ発
↓ 9月11日 ポーランド 対抗競技会 60m、100m、走高跳、走幅跳、円盤投、槍投
9月13日 ベルリン 対抗競技会(雨) 100m、200m、走幅跳、槍投
9月20日 ベルギー 対抗競技会(雨) 100m、800m、400mリレー、円盤投、槍投
9月21日 フランス 対抗競技会 80m、200m、400mリレー、走高跳、走幅跳、円盤投、槍投
9月25日 ロンドン発
↓ 途中、シンガポール、香港、上海にて講演
11月6日 帰国(神戸)
1931年(昭和6年)24歳
4月 入院
8月2日 肺炎のため死去(午前0時25分)
身長169センチ、筋肉質で逞しい骨格をもっていたが、幼少の頃からよく風邪を引き、発熱したり頭痛を訴えていたという。脚気もあったという。
50m(6”4)、60m(7”5)、100m(12”2)、200m(24”7)、220ヤード(25”8世界タイ)400m(59”8)、
800m(2’17”4世界タイ)、80mH(13”6)、走幅跳(5m98)、立幅跳(2m61)、走高跳(1m45)、三段跳(11m62)、
砲丸投(9m97)、円盤投(34m18)、槍投(37m84)、三種競技(100m、走高跳、槍投)(217点)
*ゴシックは世界新か世界タイ、その他は日本記録
この一戦を……と/夢中に戦った八百米決勝
(八月二日)今日は大会第五日目 走り高跳びに木村さんと中沢さんが2点を得た以外に何ら芳しい成績を収め得ない。選手一同はフィンランドのヌルミ、カナダのウイリアムス等超人の活躍に心をいらだたせているのでした。例によって午前十時ザンダムの宿所の前には今日の跳び合いに出る織田、南部、住吉、私の四人を乗せた自動車が用意されました。他の選手はいつものように一同見送りのために門前に集まってきました。
誰から始めたか、ザンダムの朝の空気を破って君が代が始められました。次第次第に君が代がうたわれてゆく時、送られる者も送る者も知らず知らず涙が出てきた。織田、南部、住吉、私の四人に今日の責任を全うせよと言わんばかりにホテルの入り口に立つ日の丸が見えます。
涙と涙で送り出された四人はザンダムの町を遠く離れるまで一言だに相語ることもなくお互いに心の中では大いに覚悟する所があったのでした。走り高跳び、走り幅跳びの二つに失敗した織田さんも、百㍍で思わぬ負けを取った私も、今日戦わんで何の顔下げて日本の土地が踏めましょう……
このころめっきり崩れた五月雨のような天気も今日は幾分の風があるだけでカラリと晴れた上天気です。昨日八百㍍の予選を割合簡単にパスした私は今日の決勝に出ることをこの上なく何よりの頼みとしました。大きな希望と野心をさげてはるばる来たにかかわらず、百㍍の失敗は思い出しても腹立たしいほどのしくじりです。
八百㍍に出場するにしても一度も練習したことのない者が世界の舞台、八百㍍決勝に立つのですからいかに死を覚悟しながらも己の力に自信のない者がなんで安んじて戦いに臨めましょう。作戦も走法も知らない私はただベストをつくして倒れるまでだというこの外には何の勝ち味もありません。
百㍍に敗れた私をまだ神が見捨て賜わぬなら日本のためにこの一戦を心ゆくまで走らせて頂きたいと願ってみました。
「走れ! 走って倒れたら後は引き受ける」と言われた竹内監督の言葉によって会場に進んだ私は、自分の姿が今日に限っていやにみすぼらしく見えるような気がしてならないのです。百㍍に出場してまた八百㍍に出場する選手が他の国にもあるだろうか! 走りえない自分の力を知りつつこうして出場しなければならない自分の姿を人々はどう見るだろう。
フィールドの方には折から織田さん、南部さんの二人が私と同じ気持ちで三段跳びの真っ最中です。
八百㍍決勝のスタートは幸い第一コースを得て無事に切られました。
皆に教えられた通り、第一、第二のコーナーを押さえた私はバックストレッチに入るなりドイツのラドキに先頭を譲ったと同時に、スウェーデン、カナダ、ポーランド、アメリカと私の前方に出て第三コーナーを回るころは第六番目を走っていました。しかしまだ私の心は苦しみもなく、十分ゲームの成り行きを知りつつ第一周を終えて第一コーナーを出かけたころからまた体を立て直してスパートに移ったのです。
バックストレッチに行くと一気に第五、第四、第三を抜いて、第三走者の所に割り込んだが、すぐ後はカナダのトムソン、前方はスウェーデンのゲントゼールです。前方のゲントゼールは第二回万国女子オリンピックの時に千㍍で第二位を得た人です。
この人を恐れるよりさらに私の恐れたのは一歩後方にいるトムソンです。昨日の予選に二十三秒台で走っている人だし、カナダで二、三度二十二、三秒台を走っている元気一杯のまだ年若い人です。第三位を奪った私は六百㍍辺で三位になるとすぐ前方に進み出ようとするトムソンを出すまいとする私の体と二つは強く腕と腕をブッつけました。
引き続いて再度トムソンが前進を狙った時、並行したトムソンのスパイクシューズはトムソンの体がよろけると同時に私の右膝頭を引っかきました(しかしこれは後でわかったことです)。こうして二人の間には多くの観衆も見えなかったレースを繰り返していたのです。
第三コーナーを回って第四コーナーに移るころ、もう後方のトムソンに気を取られなくなった時、いよいよ最後のスピードに移ったがもうこの時脚は一寸も動かない「いよいよ最後は腕を振ることだ」と言われた言葉をそれでも覚えていた私は振った振ったただ腕だけを……第四コーナーを回って来るとはるか前方にいると思ったスウエーデンのゲントゼールが二㍍もない所を走っているのです。
この辺まで十分自分のレースを意識していた私は、いつスウェーデンを抜いたのか、いつ決勝に入ったのかさらに覚えていません。目がかすんですべて一色に見える中で毛布をやっと探し出して伏せる。たまらない腰の痛み……南部さんと織田さんの二人に助けられて一度は立ってみたが立てない。「織田さんが一等だ」ときかされて「日の丸が上がるな……」と次第次第にそれでも気持ちが軽くなって来る。
二等になったと聞かされてとうとう泣いた。二等が悲しいのではないのです。偽らぬ所六等になればと思っていたものが二等になれたとは自分ながらよく走れたという以外には何の欲もわきません。ああ、まだ運があったのだ、二等のところにゆらぐ日の丸を見ながら流れ出て来る涙をとめることができませんでした。
まだ、前のうれし涙の乾かぬ問にいよいよ何年前からの宿望であった優勝の声は織田さんのホップによって実現され、アムステルダムの中空高く日章旗は翻り君が代の声は大天蓋をゆるがすのです。
なんという恵まれた日でしょう。いつも乗る自動車も今日はいつになく早くアムステルダムの町を抜け出して風車の回る田舎道をザンダムの宿所さしてこの快報をもたらしながらひた走るのです。
(サンデー毎日1928年9月9日号)
オリンピックの旅9/ミリア夫人と語る
その夜、日仏両選手のみを交えた夕食がミリア夫人によって開かれた。いよいよ明日はパリを去るのかと思うとミリア夫人に別れることを急にはっきり意識した。そうだ、夫人と今晩は心ゆくまで語ってみよう、そして心ゆくまで甘えてみよう。
ミリア夫人のすすめるシャンパンで私はもう半ば酔いがまわっていた。こんなに飲まされたことはないのだ。ぐらぐら回っている心臓も、ミリア夫人のつぐお酒なら破れはしまい。破れてもそれで満足だ。私は急に思い出したように(実は言おう言おうと今度ミリア夫人の姿をプラハで見てから幾日思いためらったか知れなかった)
「ミリア夫人、私達は今日一切のプログラムを終わり今夜こうして夫人の側で食事をしているとすべて満足しています。こんなうれしいことはありません。
しかしまた明日お別れしなければならないかと思うと、また何ともいわれない寂しさにおそわれてまいります。日本の選手たちはもう近いうちにヨーロッパの土地から離れて故国に帰るのをどんなに喜んでいましょう……その半面まだ永年のあこがれであったヨーロッパの土地と、私からよく聞かされていたミリア夫人の温かいお手元から去って行くことを私と同じように寂しく思っていましょう。
一九二六年初めて夫人の温かい胸に抱かれてから四年の間、私のよき師としてまた慈母として終始育てられてきた夫人に対して、どれだけの感謝をささげていいかわかりません。ミリア夫人、私は今プラハのオリンピックを終わって、今日のパリの試合を終えたとき永年の競技生活から退きたいと思っています。
夫人はまたここでお叱りになるかもしれません。しかし競技生活は退くと申しましても、決して夫人を失望させるようなことはなく、今後日本の女子スポーツのため大いに働きます。私はここに夫人に対して改めて御礼申します」
大体こんな意味のことを話して席につくと、横の夫人は
「人見さん、そんなことを言ってくださるな、泣けてくるから」
夫人は半ば泣きながら私の手を固く握りしめた。食事がデザート・コースに入ると夫人は立ち上がって
「たいへんお疲れの日本チームの皆さんをして今日フランス選手と実に親しみのあふれた競技会を行うことの出来たのを感謝する。それにつけてもあの粗末なグラウンドでおわびのしようもないが、今度のときは立派なものをお目にかけよう。
しかし、あれがパリの女子専用のトラックであっ
たのですから、喜んでもいただきたく思います(中略)最後に人見さんに一言言いたいのは、最近しばしば人見嬢が引退の意思あることをほのめかされるが実にけしからんことだ。この若さで……自分の前にいる○○○○なんか三十二歳から競技を始めた人だ(プラハで八百㍍五等)どうかいつまでも世界のスポーツ界からその名を消してくれないように、くれぐれもお頼み申します」
夫人の言葉が強く食堂の中に響いた。二、三の選手が顔を見合わせて眉をひそめた。マダムの両眼に光っているのを見たとき、私はたえられぬ身の置きどころに困った。夫人はどうしても許してくれないのだ。次のロンドンにもまた私にやって来いというのであろうか。
私はもうこれ以上夫人に話を続けて、夫人の心を寂しくさせたくなかった。十二時近くであった、夫人と言い知れぬ別離の涙をのんで、言わんとすることも言い得ずにホテルを出たのは。
プラタナスの街路樹はもう葉が青いままで枯れ落ちてアスファルトの上をからから舞っていた。パリの夜はふけた。真夜中のエトワールは気味悪いほど薄白いもやに包まれていた。
帰途につく
パリ出発の日は朝から雨が降り続いていた。列車は出かかっているが、明朝はきっと行くからと言っていた夫人の姿が見えぬ。列車がホームをせつな離れる刹那、秘書の某氏が息せき切って駆けつけた。そして車窓から渡されたものは、夫人と木下先生と私とで写した記念写真と、六人の選手へのキャンディーであった。雨がますます強くなっていく。ぼんやり私は頭の中にとりとめなく夫人の姿を描くのであった。
ドーバー海峡を渡ってその日の夕方、一行はロンドン着。二日間の滞在でいよいよ故国への帰路を白山丸に託して九月二十五日ロンドンを出発した。三度の渡欧に一回の船旅の経験さえ持っていない私は、初めて一人前の洋行をした気持ちで船室へおさまった。そして三カ月の遠征の跡を反省してみる時がやって来たのであった。(完)
(1930年11月29日付大阪毎日新聞1面)