2008年 9月 の投稿一覧

なぜ痛むのか?|ニュースレターNO.200

9月も早いものでもう4週目を迎えました。先般お知らせしましたように、10月、11月、12月とリ-コンディショニングのスペシャル講座を開催いたします。要望はあったのですが、タイミングが合わず、ようやく開催できることになりました。いつものように、10名までの少人数でやりますので、身体調整テクニックを身に付けたい方は、ぜひ参加ください。きっと満足していただけるものと思っております。

さて、今回は痛みについて考えてみたいと思います。特に、リ-コンディショニングやリハビリテーションにおいては、痛みとの戦いといえると思います。問題ないと思っても、痛いと言われれば、どうしようもなくなってしまいます。

それで、以前から「痛み」というものに興味があり、いろいろ調べてはいたのですが、どれも難しいものばかりで、自分にとって役立つ情報は得られませんでした。ところが、何かの文献からあるホームページにたどり着き、素晴らしいホームページを見つけました。すでに見られた方もおられるかもしれませんが、紹介したいと思います。

そのホームページは、石川県の加茂整形外科医院院長加茂淳氏のホームページ(http://www.tvk.ne.jp/~junkamo/)です。痛みについて広範囲に取り扱っておられるとともに、「痛み」について新たな理解をすることができるとともに、我々の現場にとっても大いに役立つ情報が提供されています。

ここでは、その一部の情報を紹介したいと思います。興味のある方は、ぜひホームページをご覧ください。また、「痛み」について関係する本も紹介されています。

『筋骨格系の痛みやしびれ(麻痺ではない)を心身相関という観点からみると謎が解けてきます。痛みやしびれは悪性腫瘍、感染症、骨折など明らかな外傷を除けばそれはハード(人体)のトラブルではなくソフト(自律神経、情動、習慣、条件反射、記憶、認知の異常)のトラブルなのです。治療はソフトをいかに修正するかにかかってきます。

痛みやしびれはどうして起きるのでしょうか?医師や治療家の説明に本当に納得できましたか?ヘルニアや辷り症や脊柱管狭窄症など構造的な診断がなされることが多いのですが、構造的問題とするには生理学的にも臨床経過的にも疫学的にも矛盾が多いのです。では、痛みやしびれの本当の原因は何なのでしょうか?

悪性腫瘍、骨折など明らかな外傷、感染症でなければ、痛みやしびれは心理・社会的なこと、心身医学的なこととしてとらえるべきなのです。不安や怒りや抑うつは筋肉を緊張させます。つまり筋痛症(myalgia)が痛みやしびれの原因のことがほとんどなのです。筋痛症は慢性化、習慣化してしまうことがあります(慢性痛)。

正しい知識を身につけて上手に対応してください。

筋骨格系の痛みは構造(器質、organic)の 異常によるものではなく、 生理機能(functional)の異常によるものなのです。その根拠として次のようなことが挙げられます。

・レントゲンやMRIの画像所見と痛みは一致しない。
・誘因なく痛みが始まることが多い。
・痛みの場所が変わることが多い。
・保存的治療で改善する。

痛みとはとても個人差の大きなものなのです。他人の痛みを推し量ることは困難です。それは他の感覚と大きく異なる点です。損傷の大きさと痛みの強さは比例しません。損傷が治ると痛みも治るという保証はありません。構造と痛み、損傷と痛みはいつも分けて考える必要があります。

従来の説明:

思い込み、レントゲンやMRIの画像の印象、科学的、理論的、統計的にも説明がつかず矛盾だらけ。

・神経が押さえられているから痛い
・神経が癒着しているから痛い
・軟骨がすりへっているから痛い
・椎間板がつぶれているから痛い
・腰椎にすべりや分離があるから痛い
・骨盤のゆがみがあるから痛い
・仙腸関節のずれがあるから痛い
・姿勢がわるいから痛い
・筋力がないから痛い

科学に基づいた説明

痛みは電気信号なのです。発痛物質が侵害受容器を刺激すると電流が生じます。それが神経繊維を通って脳に伝えられます。脳でその電気信号をいろいろな情報を通して「痛い」と判読しているのです。

神経繊維(電線)が傷んでいても電流が流れなければ痛みを感じません。電流が生じるにはエネルギーが必要です。外力がエネルギーとなるのは外傷初期の鋭い痛みです。
病態時の痛みは情動(心の動き:交感神経の緊張)がエネルギーとなります。

筋骨格系の痛みに対する科学的な考え方

ほとんどの頚痛、腰痛、肩痛、膝痛や手足のしびれ(知覚麻痺のことではありませんよ)は生理的トラブルのためです。構造の異常のためではありません。また生理的トラブルが構造の異常でおきているという証拠もありません。

痛みはレントゲンやMRIで表すことのできない生理的なトラブルです。ところがレントゲンやMRIを使ってそれを説明しようとします。ここに大きな問題がひそんでいると考えます。

伝統的医学は構造上の異常が痛みの原因とみなして説明します。多くの医師や患者さんはそれを今だにかたくなに信じています。だから治せない、治らないのです。医師にとっての悲劇は間違った勉強をさせられてきたということです。権威ある立場の医師はいまさら方向転換をしにくいものです。この事実は患者さんにとっても大いなる悲劇です。

生理学で「構造上の異常が痛みをつくる」という根拠(evidence)がありませんから、問い詰めていくと説明がつかなくなっていきます。患者さんには自分にとって不都合なデーターは無視して、都合のよいデーターだけを用いて説明する傾向があります。悪意があるわけではありませんが伝統的な医学を信じて思いこんでいるのです。

・医師はレントゲンやMRIを前にして痛みの説明をすることが多いので、どうしても生理的トラブルを構造的問題にすりかえて説明するようになり矛盾が生じてきます。

・画像所見に特に異常がなかったら「異常ありません。」とか「心配いりません。」とか「原因不明です。」ということになり、どうして痛いのか、なぜ痛みが起きたのかという説明がされることはあまりないと思います。少しひねって「斜角筋症候群」「梨状筋症候群」など、画像では表れない想像上の病態を説明します。画像でヘルニア、分離症(学童期の新鮮疲労骨折は除く)、すべり症がたまたま見つかればそれが痛みの原因だとの思い込みを説明することになります。

・画像診断は悪性腫瘍、骨折、感染症などを除外するためです。除外診断は大切ですがそれ以上ではありません。

・医師は除外診断だけをしていればいいのでしょうか。痛み(生理的トラブル)を診断するとき、どのような時に痛みが生じるか(積極的診断)、治療によってどういう変化が起きるか(治療的診断)を観察して総合的に判断しなくてはいけません。

・生理的トラブルを説明するのは簡単ではありませんが、図を使ったり、治療の効果を確認したりすれば理解していただけます。

なぜ生理的トラブルがおきるのか、どうしたらはやく治めることができるのか、なぜ長引くことがあるのかを考えてみましょう。

生理的トラブルで痛みがおきているのですからそれを調整してやれば治ります。調整のしかたはこれでないとならないというものではありませんが、危険を伴ったり大金を投じたりする必要はないでしょう。

陸上ニッポンへの提言|ニュースレターNO.199

オリンピックが終わったと思うと、もう9月も2週目に入りました。今回のオリンピックもこれまでと同じ反省になっている気がします。特に、陸上競技においては、計画的な準備がどれだけやったのか、疑問に残ることも多く見られました。また、走りについてはいまだ勘違いしていることも見られます。

そんなとき、資料を整理していたら、陸上競技マガジン1990年1月号のコピーが見つかりました。タイトルは織田幹雄氏の「陸上ニッポンへの提言」というものです。織田氏は、1928年のアムステルダムオリンピックで日本で初めて三段跳びで金メダルを獲得された方です。

そのときの優勝記録、15m21cmを記念して、国立霞ヶ丘陸上競技場の中にその長さのポールが立てられています。御自分で諸外国の練習法や各種競技の動きについても研究されていました。1998年93歳でなくなられましたが、それまでに日本の陸上選手についていろいろ提言をされていま

私もいくつも読みましたが、特に走り方、跳び方、投げ方などについて、新鮮な感覚で提言されていたことを思い出します。ここに紹介するのは、1990年のものですが、1970年代からずっと同じ提言をされていたように思います。これを読んで、日本陸上界において何が変わっていないのか、問題はどこにあるのかわかると思います。

 

東京五輪の失敗を繰り返してはならぬ

陸マガ1989年11月号の世界20傑を見ると、わずかに男子2人、女子4人しか入れぬ現状である。1992年バルセロナ・オリンピックが恐らく“黒人選手時代”と予想できることを考えると、わずかにやり投の溝ロ選手(ゴールドウイン、1人に期待する以外、マラソンも駄目と思われる。

競技にはもちろん記録がつきものだが、戦後、私がアメリカを一巡してみて感じたことは、記録ではなく、いかに勝負するか”ということである。これは戦前、私が新聞記者時代にアメリカのヘッドコーチに原稿を書いてもらった時点からすでに感じていたことでもあり、その時に再認識させられたものだ。

しかし、日本の現在のレベルでは、勝負の前に、いかにして実力をつけるかが第1の課題であるといえよう。

1964年の東京五輪を前にして、私は選手強化を引き受けた時、“競技は人間の動きによって決まるもので、戦後さかんにいわれるスポーツ科学が決定権を持つのではない”と、戦前からの私の考え方にしたがった。当時、東大で世界的にも知られた猪飼先生(故人)に特にお願いして、選手の練習を見ながら、そこにいかに科学を結びつけるかをうかがいながら強化を行なった。その結果、大会前には、南部君の男子走幅跳7m98を除く男女全種目に日本新記録が作られたのである。

そこまではよかったが、大会になると“勝負”を知らぬ選手、並びにコーチのため、自己記録を更新したのは1万mとマラソンの円谷選手(故人)ただ1人という結果に終わり、あとは自己記録も出せなかった。このことは、今なお、私の最後の失敗だったと申し訳なく思っている。

しかし、今また日本陸上界は同じことをくり返そうとしている。そうならぬためにも、どうしても、やらねばならぬことがある。それは、日本選手と外国選手との身体の動きの違いが、その差を縮められない最大の原因であることを、選手、コーチがはっきり認めることである。

まず身体の正確な動きを身につけよ力やスピードは、人間の自然の身体、の動きをいかに利用するかで、まず決まるのだが、日本選手のは、ただ走り、ただ跳び、投げるだけで、本当の動きとはほど遠いことが、はっきりと認められる。

走るためには、身体のいろいろな動きが影響するが、まず日本人は、幼い時からの動きの悪いのをそのままに鍛え、伸ばそうとしているところに第1の問題がある。

外国人も幼い時には日本人と同じ動きだが、成長するにつれて、まず身体の正確な動きを身につけ、そこにいろいろなトレーニングを加えて、強化、トレーニングを行なっているところに大きな違いがある。

走るためには、戦前は後ろへのキックのみに力をいれていたが、戦後になると科学がその間違いを指摘し、キックをさらに強めるのは前に振り出す脚によることを明らかにしてくれた。ところが日本では、いまだに古い考えが抜けないというよりも、前にいかにして脚を出せるかという身体の動きが無視されている。もっともはっきりした例は不破選手(大京)である。

中学時代のあの見事な脚の振り出しを見た時、「君は日本人離れした素晴らしい走り方だから、決して他人から言われても改めるな。そのままで進むうちに、いろいろなトレーニングによって身体ができれば、日本記録を破れる」と本人に話したことがあったが、現在は脚を前に出すことにより、後ろへのキックに力を入れて、ラストスパートの見事な切れ味を失ってしまっている。

脚を振り出した後に膝を伸ばさなければスピードに結びつかない。膝を伸ばすには足先を上に向けることだが、日本の女子では、平素からの歩き方が悪いので、これを改めぬ限りよい走り方にはならないのである。女子の中距離選手の中には、膝のせいで腰が下がり、スピードが出せない老が実に多いのもこのせいなのである。

 

リラックスとストライド

スピードに必要な要素に『ストライドの広さ』の問題がある。これも日本ではまったく考慮されず、走る距離とか、跳躍の助走などでも、でたらめと見られる老が特に、女子に多い。

溝ロ選手がスピードで投げるといっているが、あの助走でのちょこちょこ走りでは本当のスピードにならないだけでなく、投げる動作と調和しない時がある。ウォームアップや走り方を見ていて、「今日は駄目だな」と思うと、その通り、結果が悪い。世界一の実力があると期待して見ているだけに、がっかりさせられる。

ストライドのことに関連した点で、400mの高野選手(東海大教)が100m中心に走るのはどうかと思う。100mでは、400mに必要な余裕が作れないから、むしろ200mを中心に走るべきではないだろうか。

走幅跳選手が、リラックスしてスピードに富んだ助走を身につけるために200mを走るのだとアメリカ選手から聞かされたが、私もその通りだと思って、順大2年当時の臼井選手(現、日本エアロビクスセンター)に200mを走ることを勧めた。その結果、8mを超えた。しかし、その後、彼が100mを走り出してから、もう1つカラを打ち破れないで現在に至っている。

古い話だが、400mの戦前の日本記録(49秒0=1932年)を持っていた中島亥太郎君(早大、現陸上競技マガジン顧問)は、早高グラウンドでの練習は200mを数回走るだけで、後は、リレーのバトン練習だけであった。さすがに私も「これで400mはまずい」と思って彼に尋ねたところ、日曜日は彼の郷里である沼津に帰り、800mを走ってスタミナを養成していたというので、彼の好成績も理解できた。彼は走福跳でも好記録をマークしていたが、それも、助走の素晴らしさが成した業である。

中島窟に似ているのが68年のメキシコ五輪男子400mで43秒86の世界記録を作ったL・エバンス(米)で、練習は一度見ただけではっきりとした記憶がないが、シーズンの初めは必ず800mに出てから400mに移っていた。要するに、リラックスしたスピードをうまく身につけるために200mをやるのであり、これは非常に重要なのである。

最後のコーナーまでは後ろにつき、最後の直線でスパートする選手の優勝がきわめて多いのは、その結果である。

 

瀬古を飛躍させた走姿勢の矯正

スピードに関係するものに腕の振りがあるが、日本選手のは実にばらばらである。男子100mのB・ジョンソン(加)やC・ルイス(米)ばかりでなく、アメリカ選手の腕振りを見ればすぐかるはずである。

一昨年ハワイに行った時、高校選が腕振りの練習をやらされていたのを見たが、ルイスと同じ振り方であった。肩にカが入らず、すぐ腕を前に出すには、後方で手の平が下向きでなければいけない、と何年か前に筑波大の小先生に教わり、すぐ早大の山崎選手に試みさせたところ、200mの日本新録をマークした。その後、彼に会ったら、「腕振りは自分のものでよい」と言うので、それ以上話すのはやめた。

走る時の姿勢にも目本選手は問題がある。

先ごろ一線を退いたマラソンの瀬選手(SB食品)が早大入学時、アメリカから帰って走るのを見て、脚を朋に出すために上体を起こしていたので、これなら長い距離に通用すると村清コーチ(故人)に話したら、さっそく1年の冬にマラソンを走らせた。これは尐し無茶だと思った。2年生の12月になると瀬古選手が福岡マラソンに出てきたので、スタート前に「今日・は無理せず、楽な体勢で走ってみるように」とすすめておいた。

結果は外国手4人に次いで5位と、日本選手のトップであった。あとで彼に聞くと、「マラソンはそれほどきついものではなかった」というから、「あとはスピードをつけ、(先頭に)ついて行けばよい」と話しておいたが、その後はほぼ、そうしたレース展開で勝利を重ねていった。彼は高校時代に。

800mを走っていたから、スピードも出せたのである。

のちにアメリカのコーチから「瀬古は、上体が立ち過ぎる」と言われたと中村コーチが言っていたが、日本人を知らぬコーチの考えだ、と私は賛成する気はなかった。

ところが中村コーチが亡くなってから瀬古選手の練習を見た時、上体を倒し、脚を後ろへ流していて、これは駄目だと思った。1986年の回ンドン・マラソンやシカゴ・マラソンでの早いスパートで最後がふらふらなのも、これが原因の一部であると思い、トラックの1万mで同僚の新宅選手に敗れた時、そのことを注意しておいた。すると、次のボストン・マラソンは以前通りに走っていて、これでよいと安堵した。

しかしまた、1988年のソウル五輪の予選前に練習している姿をテレビで見た時、再び上体を倒しているのでソウル本番は駄目だと予想したものだ。

女子長距離の松野選手(ニコニコドー)の走り方には、先頭を切るため、余裕が作れないと以前から見ていた。今年の日本選手権1万mで彼女の後ろについた朝比奈選手(旭化成)は、上体が立っている上に膝が伸びないので、よく見ると重心が身体の後ろにあって苦しい走り方である。幸い、最:後に上体を倒し、ストライドを伸ばしたからスピードが出て、ゴール前で松野選手を抜くことができた。

 

緊張と弛緩

身体の動きは、緊張と弛緩が交互にあって初めて、よい動きとなる。男子短距離の中道選手(日大)の走るのを初めて日本選手権で見た時、これは駄目だ、と思った。上体を曲げたままでは緊張の連続だからいけない、と考えたからである。

私が身体の動きの重要性を特に感じるようになったのは1949年、アメリカでイギリスのバレリーナの踊りを見てからである。身体の“動き”を注意深く見つめ、興味を覚えるにしたがって、さらに本場ソビエト・バレエの素晴らしさを知ったのである。そしてその後は、あらゆる踊りに注目し、身体の“動き”を知った。

そのうちに、日本舞踊の:大家で人間国宝でもある武原はんさんにお会いする機会があった。その時、「どうして尐しの隙もない、見事な動きができるのですか」と私が尋ねたところ、武原さんは「それは間合いです」と言われた。これを聞いてすぐに、踊りも、スポーツの緊張と弛緩も同じだと気づいたのである。

今では日本にも世界的バレリーナがいるし、体操や水泳などの他競技で立派な動きを見せる選手がいる。これらの動きを見て、なぜ陸上選手が身体の動き、緊張と弛緩の重要性に気がつかないのか不思議でならない。

現在、日本の女子走幅跳が振るわぬのは、身体の動きの悪さに起因するといっていいだろう。助走が悪い上に、踏み切りだけ叩いて跳んでいるためである。

助走はストライドを伸ばしてスピードを出し、踏み切りは走るように前脚を素早く前方に向かって出して跳び上がれば、スピードを殺さないばかりか、踏み切りに反動の力を加えて力強く跳べるのだが、日本の女子はいっこうこそれに向かっているとは思えない。写真等を見れば、空間動作はいずれもばらばらで、そこには美しさなどどこにも見当たらないのだから、これでは躍進めざましい中国にも引き離されるばかりである。すべては動きの悪さが原因なのである。

一例をあげよう。モントリオール五輪の前年、アメリカに行った時、かつての五輪ヘッドコーチのジョーダン氏に会った。ちょうどよいところへ来てくれた。新入生で高校時代7m40を跳んだのにいっこうに伸びないので400mをやらせているが、ちょっと見てくれ」といわれ、早速その黒人選手を見た。190cm もありそうな大男で、助走を試みさせたら、ちょこちょこ走りで動きが悪い。そこで、まずストライドを伸ばすこと、踏み切りは前方の空めがけて走り抜けろと教えた。

数回繰り返したら、見事な動きで跳び始めたので、次の土曜日には自己新記録を出せるとジョーダン氏が喜んで島くれた。後日、日本で手紙を受け取ったら、その黒人選手はすぐに7m61をマークし、さらに1週間後には7m71。こ記録を伸ばしたと書いてあった。

翌年、ユージンでのオリンピック予を見に行くと、彼は予選12位で決勝に残っていた。予選競技は7m80を超えぬと出場資格がないのだが、7m83で資格を得たという。

そこでもう1度、前方の空を見て跳ぶように決勝でやってみろ、と教えていたら、彼は7m98を跳び4位入賞。五輪代表権は惜しくも逃したものの、その翌年のアメリカの雑誌を見たら8m27でリストのトップになっていた。これはモスクワ行きだと思ったものである。しかし、彼はその後、プロ・フットボールに転向してしまったそうだ。

この選手にも初めて会った時に、400imをやめて200mを走れと言っておいたが、1年余り後には100mは10秒7、200mは20秒7にまで伸びたという。現在、世界は8mを超えなければ問にならぬが、戦前と比べその記録伸びは、はたして本当の強さなのか、それとも、助走路その他の条件がよかったせいかのどちらかと考えたら、は後者だと思う。

かつて7m98の世界記録を持っている南部君に今挑んでもらったら、8m50くらいは出ると思うのである。8m90の世界記録を持つB・ビーモン(米)助走を見た時、南部君そっくりであうたことも私の意見の裏付けである。

三段跳でも、日本選手の動きの悪さ、いかんともしがたい。現在は17m台でないと世界では問題にならぬが、日本選手がもっと前に出す脚を伸ばすことができれば、17m30~40は跳べるはずなのだが、いっこうにそれが見られない。

筑波大の村木君の指導は、ソビエトから学んだりして研究熱心で、また大学での練習方法などもうまく、脚の動きの点は十分に心得ていると思うが、実際に山下選手(日本電気)の動きにはそれが見られない。

最近、植田君(東海大教)の指導振りが見事だと感心しているが、ここにも、脚の問題がはっきりと出ていないのは残念である。

 

“なぜ弱いのか”を知る

最後に、戦前の私自身のやり方や考え方をつけ加えさせてもらいたい。

19歳でパリ五輪(1924年)に出場した時、とても世界との争いは無理だと予想したので、オリンピック村の隣のサブトラックに出かけて世界から集まった選手たちの練習ぶり。特に技術について、あらゆる種目に目を向けてみた。

それは、「なぜ日本が弱いのか」を知る上で大切であり、良い上産になると考えたからである。

跳躍の3種目は世界の1、2位と思われる選手と練習を共にすることで、その技術を知ることにした。

走高跳は残念ながら、同大会の優勝者でロール・オーバーのオスボーン選手(米)とただ親しくなるだけに終わった。走幅跳は同大会優勝のハッパード選手(米)と練習を行なったが、私と変わらぬ跳び方で、毎回50~60cmも差をつけられて、これはスピードの差だとわかった。後に、女子五種競技でローゼンダール選手(西独)が世界記録を作ったのを見て、身体の大きい者との踏み切りの違いを感じた。

三段跳はアルゼンチンのブルネット選手がやってきて、私が踏切板を砂場から10mにしてもらったのを11mに変えさせたので、これは大選手だと感じ。一緒に練習した。一方で、フィンランドの三段跳のコーチからも話を聞いてみたが、急に動きを変えるのはよくないと、自分なりの大股を開く跳び方を変えなかった。

オリンピックが終わって、世界の選手も大試合ではアガルのだとわかったし、自己流で6位入賞なら次の大会は3位に入るのだと決心していた。学ぶべきはアメリカで、欧州は問題なしと、アメリカの指導書を読んだが、日本人と身体が違うから、そのままは受け入れられぬと、自分なりの考えを加え、日本式競技をいくつか作った。このことから、今でも目本人は、日本式強化を考えねば問題にならぬ、と思っている。

他の競技が実行しているのだから、陸上にできぬはずはない。それにはくり返すようだが、日本人の悪い身体の動きをまず正してから、強化の方向に進むべきである。溝日選手や、これまでのマラソン選手の例もあり、やってやれないことはないと思う。

貧弱な身体だった私がオリンピックで優勝できたのだから、身体のよくなっている今の日本選手に不可能とはいえまい。海外遠征もよいが、じっくりと外国選手との違いをとらえ、これに対抗する策を工夫するヒとが必要だと思う。

1922年に初めて走高跳の日本記録を破り、三段跳の世界記録を作った1931年までの10年間は、ずいぶん無茶な練習もしたし、無暴な競技もやった。精進は私のモットーだったが、これは精を出し進むことと解釈していた。思い出は苦しみの方が多いが、陸上競技は楽しいものだった。』