2009年 4月 の投稿一覧

痛い腰・膝・肩は動いて治せ|ニュースレターNO.214

先週、中国の大連に行ってきました。今回は、馬軍団がトレーニング基地にしていたところに行ってきました。中国の知人がそこのトップになられたことと私も以前にお会いした事があるので、今回はけが人がいれば見てあげるということで行きました。

馬氏がいたころは、長距離チームだけだったのですが、いんなくなってからは遼寧省の選抜選手がトレーニングをするところに変わり、すべての種目の選手がいますし、少年から成人までいて、プロのスポーツ学校として活動しています。リッパな室内の300mのトラックと投擲もできるようになっており、横には土の400mトラックがあります。

5-6名の選手を見ましたが、みんな使いすぎと動きの悪さが原因でした。女子のハンマー投げの選手にいたっては体幹の筋力不足で腰痛が出ていました。中国の問題は、トレーニングとからだのケアにあるようです。アイシングも要約やり出した程度で、氷水につかるなんて発想はできないようです。冷たいものは身体によくないということと、身体をつけると風邪を引くという考えが抜けないということでした。

コーチの知識不足はひどいもので、いまだとにかく数多くやればいいという考え方のようです。しかし、選手の体格や素質は素晴らしいものでした。

さて、今回のニュースレターは、長年の知人であるドクターが昨年出版された著書を紹介したいと思います。スポーツドクターで、斬新的な考え方を御持ちのかたです。一般人にもわかりやすく、ケガとその対策について解説されています。非常に読みやすい単行本です。

島田永和著「痛い腰・膝・肩は動いて治せ(朝日新書2008)」、ぜひ読んでみてください。目次の一部とドクターの考えがよくわかるところを紹介します。

2.安静にしていれば大丈夫?

形を整えるのが「整形外科」の仕事?
捻挫は骨折より安心?
安静で寝たきり予備軍に
「動かしながら治す」ことの大切さ
入院は短いほうがいい
使っていなかった手足を元通りにするには
ピアニストの指
動けなくなってしまった理由

3.痛みと上手に向き合う方法

診療で注意していること
腰痛への対応
膝痛への対応
肩の痛みへの対応
外傷への対応
捻挫への対応
骨折への対応
椎間板ヘルニアへの対応
関節リウマチへの対応
骨粗鬆症への対応
運動の効用

『日本整形外科学会のシンボルマークは桜の木です。その桜の木は曲がっており、添え木を並べて縄で縛っています。この方法で曲がっている変形を矯正することを示した図案です。もともとは整形外科を個別の学問として初めて著したフランスのニコラス.アンドリーの教科書にあった図を、日本的に桜にしたのだそうです。

整形外科の発想は形を整えることにあり、それが「整形」外科という名称につながりました。当時、その考え方が受け入れられた背景には、形態の異常から生活に支障をきたす例が多かったことがあげられます。「形を元に戻すことで、改善するに違いない」。

当時の整形外科医たちはそう固く信じ、患者さんに、辛い治療も我慢するよう要請しました。矯正用のギプスや、身体の自由な動きを制限するような装具も多く使用されていたという記録があります。目で見て曲がっているものは異常であり、それをまっすぐにするのが医師の務めだという信念で治療に当たっていたと思われます。

やがて、外から目で見るという観察から、身体の内部が分かるまでに技術が進歩しました。外部からの撮影で人間の骨が写し出されるレントゲン写真の開発は、当時の人々にとって驚異だったに違いありません。

さらに、人体を輪切りにして構造を見ることができるCTスキャン、そして、レントゲンではなく磁気を使ってより安全にそして正確に検査ができるMRIへと進んできました。また、胃の中をのぞく内視鏡は、大腸も観察が可能となり、さらに精密な機械の導入により、身体の中をのぞきながら摘出などの処置も行えるようになってきたのです。

整形外科の領域でも、関節の中をカメラでのぞく「関節鏡」が普及し、膝、肘、肩などの検査と治療に用いられています。

外観だけでなく内部までが写し出されるようになってくると、それまで見つからなかったさまざまな形の異常も見つかるようになってきます。そうした流れの中で、多くの医師は、整形外科創設期の考え方である「形がおかしいものは異常であり、正すことが治療となる」という概念にとらわれ、診療に当たっているように私には思えます。

例えば、2週間前にバスケットボールで突き指をした選手がいるとします。すでに練習にも復帰し、グー、チョキ、パーもきちんとできるけれど、二番目の関節の周囲にまだ少し腫れが残るので、親御さんに連れられて受診しました。

関節に腫れが残っていてもグリップが十分できるようなら、私は問題ないと思うのですが、レントゲン写真を撮って調べてほしいというので、レントゲン撮影をします。そのとき、ほんのわずかの傷(ヒビ)が見つかったとします。

医師によっては、「ヒビとはいっても骨折で、これは大変だ」と、指用の添え木(シーネ)で固定を指示します。これは先ほどの「形の異常」に引っ張られた治療方針だと、私は思います。レントゲン写真でわずかなヒビが見つかったからといって、すでに2週間、スポーツができていた指を、今さらどうして固定して守らなければならないのでしょう。

突き指で受診した選手に対して、診療の目的は、普通に使える指にすることであって、そのための手段としてレントゲン検査があるはずです。

このように、すでに普通に使えている指を固定することは「百害あって一利なし」と断言できます。固定することによって、せっかく動いていた関節が固まり、動きにくくなってしまうからです。

しかし、親御さんの心配も理解できます。突き指というのは、要するに指に普段とは違う方向または大きさの力が加わり、傷んだケガのことです。骨折・脱臼もあれば、靱帯損傷という重傷のケガも含まれます。重症ではなくても、関節の周辺が多少傷つき、腫れが残ることがあります。

特にベテランのプレーヤーに多く見られるのですが、突き指の後に関節が節くれ立ったようになってしまうことがあります。しかし、それによって彼らの生活に支障をきたしているとは聞いたことがありません。ですから、親御さんにはこの腫れは心配しないように伝えます。

私の診察では、まず、関節が左右に不安定ではないか、自分で曲げ伸ばしができるか、押さえて痛みのある場所はどこかを確認します。その結果、大きな問題がないとなれば、たとえレントゲン写真でわずかなヒビが見つかったとしても、固定せずに動かしながら治すことを勧めます。そのほうが治療の目的である「普通に使える指にすること」が叶えられるからです。

形が悪いからといってすぐに安静や固定を指示するやり方は、整形外科黎明期の技術革新の興奮をいまだに引きずっていると言えるのではないでしょうか。』

『毎日の診療はハプニングの連続です。ヘルスケアという仕事は、人間を相手とした仕事であり、医学的、科学的に正しい対処ができるというだけではなく、相手の個別の状況に合わせた人間的な配慮も付け加えることが「よいサービス」だと思います。

職場の責任者として、スタッフにも「いつもの通り」という型にはまったやり方をしないようにお願いしています。

ヘルスケアの場合、人と人の接点のスタートは「今日はどうされました?」という問いかけから始まります。経過を伺っていく質問の中でも、大切なのは、受診する気持ちになったその「きっかけ」を聞き出すことです。交通事故にあったとか、朝から急に立てなくなって満足に歩けないとか、仕事中に骨折したなどというケースでは、受診の理由ははっきりとしています。

しかし、受診の理由は、こうした急に起こったものばかりではありません。以前から続いている症状を理由に来られた場合などは、来院に至った何らかの動機があるに違いありません。そもそも、病院なんてできるだけ近寄りたくない場所のはずです。それなのに、時間を作って来られるにはそれなりの理由があるということです。

そこを聞き出すことが、ケアを提供する上でとても大切なことになります。単に、身体の異常を何とかするというのではなく、直接の動機に潜む目的を叶えることをゴールに設定しなければ、ケアによる満足が得られないからです。

例えば、以前から腰が痛い人でも、来院に至った動機はさまざまです。「来週末には楽しみにしているゴルフコンペがあるけれども、このまま痛みを放っておいてよいのか」と心配で来られる方がいます。「孫との初めてのハワイ旅行なんだけど、7時間も飛行機の座席に座っていて大丈夫かしら。

みんなに迷惑をかけるくらいなら、今のうちにキャンセルをお願いしなくっちゃ」と心に決めて、受診されたおばあちゃんもいます。高校生活最後の試合を控えたサッカー選手は「あと3週聞練習をしなければ、試合で使ってもらえない可能性があるけれど、休まないと痛みは取れない気がするし、どうしたらいいか分からなくなった」と悩み抜いて来院しました。

「以前は朝起きたときに痛むだけで、動いているうちによくなってきたけれど、最近は立っているだけで痛むし、足のほうまでしびれた感じがするようになった。これはどうもおかしい」と来られる中年男性もいます。

それぞれの腰の状態を医学的に分析していく方法には、大して違いはありません。主たる症状、これまでの経過や対応などの話を聞いた上で、実際に身体に触れたりしながら神経の具合を調べます。その結果、必要に応じて、レントゲン写真を撮ったり、時にはMRIなどで詳しく調べたりします。これで、どのような部位に起こり、どんな問題点があるかを「診断」していきます。

ここまでの経過は、患者さんによってそれほど変わることはなく、おおよそ同じです。しかし、目的をはっきりと知っていると、多少確認する事柄が増えたり、逆に省略したりするといったアレンジも出てきます。全く違ってくるのは、こうしてたどり着いた身体の異常について、どのように対処するかという「治療方針」です。

その腰の症状が何をする上での妨げになっているのか、ということがポイントとなります。そこで、どうすれば、本来その方がしようとしていることが可能となるのかを相談します。その際、痛みが完全に取れない状態で計画通りの活動をして、後で障害が残るようなことがないか、つまり、後悔することはないのか、ということも話し合っておく必要があります。

基本的には、「痛み」というのは体の中からの危険信号ですから、それを無視して行動するのは好ましくありません。しかし、中身をよく考えてみると、痛みの中でも、多少の無理ができるものと、乱暴に続けると危険なものがあるのです。

問題はその確率です。どのくらいの可能性で、問題が起こらないと言えるのか、また、どれくらいの確率で非常事態が予測されるのか、医師のプロとしての技量が試されます。自分の知識や経験に基づき、できれば根拠を持って、情報を相手に差し出します。そして、お互いの考え方を出し合って結論を出すのです。

先ほどのおばあちゃんの場合、ハワイへの機中でどのような工夫をすれば、腰の痛みを緩和することができるか、具体的な対処を指導します。それでも、痛みが絶対に出ないという保証はないことも説明します。どれくらいの確率かも予想して話します。後は、ご本人とご家族がどう考え、どのような決断をされるかです。私としては、せっかくの機会なので、できるだけ参加するようにお勧めすることが多くなります。

楽しみにしていることをやめるという対応を取ってもらいたくないからです。

ただし、それには条件があります。一つは、医学的に痛みの発生の可能性が、それほど高い確率ではないことです。二つ目は、ご本人やご家族の理解と協力です。どんな事態で、どのような可能性があるのかを十分に分かってもらわねばなりません。そして、三つ目が、困った事態が起こらないよう、ご本人やご家族が精一杯の努力をすることです。

こうした話は、「高齢者の転倒」を例にとるとよく理解できると思います。転倒を恐れれば、一番の予防策は「寝かせておくこと」でしょう。できるだけ動かないように、という指導は、きわめて安全な方法ではありますが、同時に重大な副作用を持った方法でもあります。

動かないことで体の機能がどんどん低下していってしまうからです。ご本人にとっても楽しいことではありません。自分自身に置き換えて考えてみるとどうでしょう。危ないから寝ていうと言われて、おとなしく寝ていられますか。

高齢者には、家族に迷惑をかけることを非常に気にしている方も多いのです。ご家族から危ないから寝ているほうがいいと言われると、逆らうことはしません。自分の思いを後回しにして、ご家族の意見に従おうとする姿を見ると、痛ましい気持ちになることもあります。

ともかく、転倒をうまく予防しながらも、自分のしたい活動を続けてもらえるような対応を目指すべきだというのが、私の結論です。』

「思ったとおり」とは?|ニュースレターNO.213

4月に入り、平成スポーツトレーナー専門学校も最終の年を迎えることになりました。多くの方々から来年からどうされるのかという問い合わせをいただいております。私としては、これまでの経験から学んだことからの私の考え方や習得した技術・テクニックというものを伝えて行きたいと考えています。

そして全国の多くのスポーツトレーナー、パーソナルトレーナー、治療家、コンディショニング、リ-コンディショニング関係の方々とともにレベルアップが図れればと考えております。今は、優秀なスポーツトレーナーの卵を1つでも多く育てることに全力を尽くしたいと思います。

また、これまでは私の学校でいろんな相談を受けておりましたが、これからは“H.S.S.R.ラボ”で相談に対応して行きたいと考えております。
さて、今回はSportsmedicine 2006 NO.80に掲載されていた徳島大学の荒木秀夫氏のインタビューを紹介したいと思います。テーマは、“「思ったとおり」とは?”ということで、コオーディネーションの視点から思ったとおりに動くためにはどうすればよいか、というものでした。

思ったとおりに動けないのは、自分の感覚と実際の動きにずれがあるからで、そのずれをいかに修正するかということが選手にとって大事なことであり、指導者にとっては「ではどのようにして修正するか」というように指導技術が要求されます。

思い通り動けるようにするためには、「感覚をいじれば動きが変わる」という考え方で、実際に手や足をどのように動かすのかということよりも、どのような感覚で手や足を動かすのかということが指導のポイントになるということです。私の指導も同様で、選手にどのような感覚でやっているのかということから始まり、どのような感覚でやってみてはということで動きを習得させています。

このように考えると、手や足をどのようなタイミングでどのように動かすのかということは意識を持たせた指導であり、手や足をどのような感覚で動かすのかということは無意識の指導ということになるように思います。そこで必要なのがスポーツオノマトペといわれるアドバイスすることばの使い方ということが重要になると思います。

指導者にとっては、非常に参考になる内容です。ぜひ、全文を読んでいただきたいと思います。

『自分が思った動きと違うということが典型的に起こるのは、平衡の能力、バランスに関わるものです。とくに体操の後方回転、いわゆるバク転やバク宙などの練習を行うときは、「頭がこう上がってこのくらいでマットに落ちている」と思っていても、写真やビデオを見るとまったくそうなっていなくて、お尻から落ちていることがある。

最初に加速度が加わったときにかなり回転しているとイメージし、十分回転しきっていてもう尐し頑張れば頭のほうから落ちると思っていても、実際にはほとんど回転していない。あるいは、立った状態から長軸を中心に回転すると、自分ではほとんど1回転しているつもりなのに、半回転をちょっと越える程度で着地しているというようなこともよくあります。

本人としては意外と感じる。このように、イメージが一番ずれやすいのが平衡能力系です。

平衡能力というのは、基本的に重力と闘う、それを制することで安定した姿勢を保つ。その処理が終わると、それ以上はその部分の情報処理をしないようにし、たとえば、速く走る、正確に何かをつかむなど他のほうに資源を配分します。ところが、人間は猫みたいに常に回転して正確に着地するというプログラムが未完成なまま維持されている。

それは、いろいろな場面に適応できるように余力を残しているのですが、回転の能力にしても使わないとそれだけ後退してしまう。

体操でバク転に結びつけようとすると、せいぜい前転や後転を行う程度ですが、それは常に皮膚やからだがマットなどに接した状態で回転しています。すると、瞬間的に地面から離れて回転することはまった

く予期しない事態になります。そのため、ちょっとでも加速度が加わるとすごく回転したように感じてしまう。初心者、一般的な人間の動きはちょっとしたことを非常に過大評価する。ボウリングなどでも、右にガターしてしまったからと真ん中に投げるように自分で微調整したつもりが、左にガターしてしまうくらい過大評価してしまう。

基本的に、運動の学習でも知的な学習でもそうですが、まず過剰に反応し、増えた分を減らしていくというのが生命系の学習の特徴です。小脳などの脳細胞でも、学習すればするほど抑制系の活動が発達します。

子どもがものをつかむときでも、必要以上に屈筋が働き、だんだん特定の指だけのはたらきになり、余分な屈筋のはたらきに抑制がかかるようになる。過大に評価してそれを抑えていくというシステムの流れがあります。そのなかでも、とくに平衡能力では空中に浮かび地面から離れるので、空中に跳んでいる状態のときは極端に高いスキルが要求される。

ものを投げることは徐々に思った距離に近づいていきますが、跳んだ状態だとトリプルアクセルなどにしても地面を蹴った瞬間に成否が決まる。いったん氷からスケートが離れてしまうと、いくら跳んでいるときに手をバタバタしても回れない。その蹴った瞬間の予測を過大評価してしまうことが起こりやすい。

平衡能力、バランスがとれるかどうか。これは空間をつかむにしてもタイミングのとり方にしても大きな土台になっています。コオーディネーション能力にしても、指導者の側からみると、まず平衡のとり方やその特徴をつかむことからトレーニングをイメージしていきます。』

『昨年長距離選手だけを対象にトレッドミルで走らせたのですが、右足は外向きだったり、内へ向いたりと個人差はありますが、同じように接地に入ってくる。しかし、左足は毎回ぶれる選手が多かった。自分では両足とも真っ直ぐ入ってくる感覚が強いのですが、それでも走れているから修正する必要もない。

自分の身体感と言うか、からだの感覚のイメージがどこまで入ってくるかが改善されない限り、自分のイメージする動きと実際の動きにはずれがあるでしょう。そのずれは、ずれたままでもとりあえずは問題がない。ただ、その一歩先に行ったときにわずかなイメージのずれが問題になってくる。途端に何もできなくなるということはよくあります。

単純に両足で立って一歩踏み出す、歩くときの身体の感覚、イメージというのが大事で、この研究室に来る選手がついでにトレーニングを行うことがあるのですが、まず直立、真っ直ぐに立ってもらう。これは運動の基本で、次に「足の筋の緊張を使わないで立ってほしい」と言います。

そのときに筋電図を見せると、筋の放電がかなりある。選手は自分ではわからない。その筋の放電を取るための身体のイメージがない。まさに自分が感じていること、思っていることと全然違うからだの動きをつくっているということです。

皮肉なことに、筋肉がたくさんついている選手のほうが効率の悪い立ち方をしている傾向があります。力を入れる必要のないところに力が入っている。しかし、それでともかくは支障がない。お金のある人はラーメンにするか、チャーシューメンにするか気にしないのと同じです。

ある投擲の選手は「絶対に力が入っていない」と言うのですが、筋電図を見せると力が入っていることを理解する。トレーニングをすることで筋の放電が出ないようになりましたが、そこで自分の足の筋力に頼らず、棒の上に立つようにバランスをとっているというのはこういう感じなのだと気がつく。』

『そうですね。違った状態で、それでもお互いが通じている。たとえば、「スマートsmart」という言葉はアメリカでは「賢い」というような意味ですが、日本では全然違う意味になっている。しかし、日本人同士ではその異なる意味で定着している。これと同様に、自分のからだのイメージと実際が異なっていても支障がないため定着してしまう。しかし、一歩高いレベルへと踏み出したときにその誤差が問題になることもある。

自分が動くことのイメージは時間の問題がすごく大きい。どういうことかと言うと、やって違うと感じるのか、やる直前にその違いを感じるのか。音楽の場合なら、バイオリン奏者は弦を弾こうとした瞬間に、実際に音がするより前にその音が聞こえているはずです。

初心者の場合は弾いた後に音を感じ、判断する。そして、「この音は不快だな」と思い、どう弾けばよいのかを考える。このことを選手に指導するときに、よく順次性と逆次性という言葉を使うのですが、バットを振ったときにどうやってテイクバックをとってボールを打つかを「こうテイクバックしてこう打って、こうフォローがくる」というイメージではなく、たとえば、インパクトの瞬間に手にカツンとくる感覚がありますが、その感覚を探るような導入の仕方をする。

動きは時間でみるとマイナス方向の思考になる。頭の中では「結果がこうなるためにはどうすればいいか」を考えるということです。

以前にも書いた、逆運動学と順運動学の両方が人間には同時に成り立っていて、未熟な状態で自分の身体の動きのイメージがない場合は常に後手になる。何か動いたときにどうだったという結果が出てフィードバックされ、大雑把なイメージができる。しかし、動きに慣れてくると先のほうのイメージが重要になってくる。

こういうふうになるであろうという仮説があって、その仮説にどれくらいまで近づいたか、合っているのか、合っていないのかを考えていると学習は進む。動きは自分のイメージどおりになっていく。それが全然ないと、視覚の映像に頼り、誰かがやっているのと同じようにやろうとして、結局うまくいかないということになる。

認知の段階として、発育発達期では原始的な筋や関節の動きのイメージがまず形成される。そして視覚による映像があって、やがてそれが象徴的、シンボリックな言語という形になる。その過程において、小さいときに筋覚などに十分に刺激が与えられないまま、やがていきなり言葉の刺激が入ってくると、頭の中で1つの論理は入ってくるけれども、筋覚が伴っていないから記憶ができない。

たとえば、ネクタイの締め方は理論的には覚えていないけれど、動かすと言葉で説明できる。自分が「思う」というのは、言語的な思考の部分と、それを裏づける感覚的な統合された部分があって、それがあるかないかが運動のイメージにも関わってきます。

運動のイメージは意外と定義的に統一されてないというか、日常的な感じで運動のイメージがどうのこうのと話されている場合が多い。しかし、厳密なとは言わなくても、かなり確定的な定義がつけられるとは思っています。それが認知科学の分野などでは重視されていて、脳から身体へ拡げて捉えようとしています。

今まで、認知は知覚、感覚の延長上にあるという感じだったのですが、その定義がどちらかというと行動として捉えられている。それはすべて事前にある動きのパターンのようなものがあって、あえて言葉で説明しようとしてもできないことはないし、逆にそういうものがあるから言葉で表せる。その像を先につくると非常に筋の活動、動きそのものが組み立てやすい。』

『スポーツ一般もそうで、段階を踏んで先が長いなと思ったら、ある一点をクリアすると全面に展開するということがたくさんあります。ところが、自転車を乗る前に綱渡りを行ってバランスをとる練習をするような発想になっている。

イメージがつくれないものだから、過去の自分の経験のイメージ、車輪が前後にしかなく、右か左に倒れるからバランスがとれなければいけないとなり、そこに注意がいき、足を動かそうとするとバランスがとりにくいので、多くの子どもはこぐということに抵抗し、手でハンドルをどうにかすることばかりに気がいってしまう。

スケートのコーナーワークでスピードを上げたときに、やったことのない人間にとっては、外側の足をグーッとクロスに入れ込む動きのように思えてしまう。基本的にラインからクロスしないで前気味で押すだけで十分曲がれるのだけれど、視覚的には足がクロスしているように見えるので、そうしようとしてしまう。すると、無理して後ろ足を前足にクロスしようとして、外側に倒れたりする。

そうではなく、斜め前に平行に歩くようにすればよいとわかれば、何分かでコーナーワークができるようになります。

過去の経験と視覚で捉えた映像の感じから「こうだな」と計算してしまう。それを補正するのが小さいときの筋覚や体性感覚で、その刺激をどこまで与えられるか。その経験を多く積むほど視覚や聴覚などが精度のよいものになってくる。それができると、今度は言葉が充実してくる。

ブルーナの考え方が非常におもしろいと思ったのは、それが全部適用できるかは別としても、まず原始的な感覚が土台となっている。しかし、それで情報処理しきれないために、感覚の高いレベルである視覚や聴覚などの精度を上げていく。それでもやはり土台ははたらく。

たとえば、大きなものというのは、映像的に両手をうんと広げてつかむ感覚と結びついたものであって、小さいものは片手で持てるなという筋の感覚と結びついて「小さいな」という感覚に結びつける。』

『スキーでの姿勢はこうだとわかっていても、いざ急勾配の斜面を見たときに止まらない、止まれないという意識から姿勢が崩れてしまっていて、写真を見て腰が引けているのがわかると、「いやあ、もっと前に出していますよ!」となる。

運動時の映像を見せてフィードバックするときの狙いは、「ここが伸びている」「ここが曲がっている」ということを指摘するのではなく、「自分のイメージとどこが違っているか」を指摘させることです。「膝(腰)を曲げているつもりだけど伸びている」といった感覚を持つことが重要です。

中略

上体を持ち上げたときにも、重そうだなと思うと筋が張るような気になる。自分でつくった架空のイメージで滑っているなと感じました。ただ、自分としては明らかに違うわけです。グーッと沈み込んで、グーッと押し上げている感じがあるんです。一方では、抜いてポンと上がっている感じがあるのに、ビデオではほとんど変わらない。そのときから、逆に感覚をいじれば動きが変わると思うようになりました。

感覚運動統合には昔から関心があり、脳電位を用いて実験を行っていましたが、もっと土台というか、マクロな発想を持って徹底して考えるようになりました。ボールを投げるときであれば、投げられたボールを捕るときのイメージ、つまり投げられた側からの視野をつくったほうが早いとわかった。

コオーディネーションの大きな3つの柱の中で、「感覚によって運動をつくる、運動によって感覚をつくる」ということを徹底するようになった。投げ方で言えば、投げたときに指にどんなことを感じたかをフィードバックさせたり、蹴るときもボールの蹴り方ではなく、蹴ったときのつま先の感覚をみるようになった。

靴を履かないで裸足で触ったりすると、親指が先に当たるのか、人差し指が先なのかという感覚も得やすいし、その感覚を追い求めるような動きが早くつくれる。蹴ったボールのコースも早く身につく。』