2010年 6月 の投稿一覧

上手なからだの使い方|ニュースレターNO.242

わたしは「直せば治る」という考えをもって身体調整を行っていますが、その基本になることが「自然体」であり、正しいというか適切な立位姿勢にあります。正しいまた適切な立位姿勢の定義は難しいものです。本に書いてある「立位姿勢とは・・・」というようにはならないとこれまでの経験で感じています。

したがって、自分の中で正しい・適切な立位姿勢の定義というものをつくらなければいけないと思っています。その立位姿勢にどのように戻すのかというところに手技やテクニックがあると考えています。本に書かれているような正しい・適切な立位姿勢はこうでなければいけないというように考えてしまうと、不都合なことも起こってくることもあるので、いろんな状況を考えながら定義していく必要があると思います。

ちなみに、私の考える自然体は体のどこにも緊張が見られない楽な立ち方ということになります。もちろん左右対称に近い形でということになります。

そこで今回は、渡會公治著:上手なからだの使い方(北溟社2006)という本を紹介したいと思います。正しい・適切な立位姿勢を考える上で、また指導する上で参考になると思いますので、一部を紹介します。

『私たちは脊椎動物の一員です。立派な脊椎を持っていても、上手にからだ、背骨を使いこなしているひとは尐数でしょう。

3次元空間に存在するものの動きを表すときはまず、動くものの位置を記録します。基準となる座標軸x軸、y軸、z軸で作られた立体のなかでの位置を測定することをします。立体の動きはxy平面、yz平面、xz平面の平面に分解して記録します。この面は人の身体では前額面、矢状面、水平面といいます。

前額面は前額つまりおでこと平行な面です。鏡と向かい合うときには鏡と平行な面です。正中面ともいいます。これに垂直な面は二つあります。水平面と矢状面です。水平面は分かると思いますが、上から頭から身体を見ることになります。矢状面は横から見る面です。矢が正面から飛んでくるというイメージで矢状面というのでしょう。

この3つの面をイメージして垂直に並んでいる脊椎を動かしてみましょう。まず、矢状面に沿って動かす。というと難しそうですが、何のことはない前後にお辞儀して地面を見ることと天井をさらに後ろを見る動きです。

次に前額面に動かす。つまり左右に曲げます。さらに水平面に動かしてみましょう。回転です。脊椎の中心を軸にして右回り左回りの動きです。頭を動かすと背骨はついてきます。

多くの人は左右の差も感じないと思いますが、なかにはやりやすい方向がある人もいるかと思います。背骨は正面から見るまっすぐですが、横から見ると弯曲が3つあります。くびの頚椎前弯、せなかの胸椎後弯、こしの腰椎前弯です。骨盤の仙椎、仙骨は一つの骨に癒合していますが、後弯うしろに凸の形をしています。

前後方向に曲げるときは左右差は生まれませんが、正常な脊椎でも弯曲があるので左右や回旋では難しい動きが必要になります。身近にあるもので弯曲をつくってこれを左右に曲げてみてください。たとえばひもをたばねて太くして上下に両手で持ちます。下を固定して上を動かします。

まっすぐなまま3つの面で動かしてもどの方向でも動きます。弯曲を一つでも作って曲げてみると回転や横に曲げる動きは難しいことが分かると思います。それから、自分の頭をもう一度前後左右回転と動かしてください。本当に左右差はないか確認してみましょう。

さて、3次元脊椎体操です。

前後屈曲、左右屈山、右回り左回りこの2種類3方向の動きの組み合わせは8種類あります。動かす順を考えると6通りありますから、合計で48種類になります。

まず両手で小さな本かペットボトルか何かを軽く持ちます。胸の前の正面にまっすぐに背筋を伸ばして持ちます。基準となるポジションです。このポジションから3種類の動きを連続して行います。たとえば、前に曲げ、左に曲げ、右に回します。

持っている本やペットボトルだけでなく背骨を一緒に動かしましょう。捻れている背骨の感覚を味わったら、元に戻ります。一気に基準ポジションに戻します。次に、右に曲げ、右に回し、後に曲げるそして一気に基準ポジションに戻す。次は後に曲げて左に曲げて右に回す。一気に戻す。48通りすべてを行う必要はありませんが、4、5種類考えながらやってみましょう。背骨がすっきりすると思います。

なぜ本とかペットボトルとかを持つ必要があるのかといいますと、分かりやすいからです。慣れるまではあったほうがやりやすいと思います。慣れると無くてもできますから、キーボードを叩きながら背骨を動かすこともすすめています。しかし、時聞を作って両手を前に何かを持ってやることをやってみましょう。

原点に返るというか、やってみれば感じられると思いますが、両手が参加すると何か違いがあります。たぶん、背申の筋肉が協調するからだと思います。裸の背中に見ることができる背筋といわれる筋肉は背骨や骨盤からでて肩甲骨や上腕骨に行く上肢の筋肉です。手を動かせば働く役割を持っています。

両手で何かを持てばその動きに参加してきます。手と脊椎の協調運動では面白くない。3D体操と清水先生は名付けたのですが、もう一つ良い名前がないかなと模索しています。』

『美しく、しっかりと立てれば、スキーは簡単にできるはずであるというのが私の意見です。立つことは誰でもできることのように思えますが、ロボットを見ても2本足で立つのは簡単なことではありません。

考えてみても、すぐに分かるように生まれつき立てる人はいません、赤ちゃんの時代にほめられ、おだてられ、学習して立てるようになり、歩くようになっていくわけです。しかし、その後さまざまな活動を獲得していくのですが、さらによりよい立ち方を学ぶ機会は尐ないというよりないと思います。

この授業では立つために関係する知識(解剖学、生理学、運動学、バイオメヵニクスなど)を学び、自分の身体を動かして知識を身体で理解して、美しく立つことをめざしています。最後に応用としてスキーを取り上げるというのは、スキーはゲレンデで立てればできるものなのです。

急な斜面でもバランスをとって立っていれば滑ることができます。止まる技術が必要になりますが、斜面に立てれば止まることもできます。股関節の動きを学び、左右に体の向きを変えたとき、常に谷側の足に体重を移すことを学べば方向転換も止まることもできます。スキーのターンは歩くよりもゆっくりなリズムの体重移動があるだけですから立って歩ければできるスポーツです。』

『スクワットという言葉の文字どおりの意味はしゃがむことで、しゃがんでは立つことを繰り返すもっともシンプルな運動です。シンプルなものほど奥が深いといいますが、しやがんで立つだけのスクワットにもいろいろなスクワットがあります。スクワットで腰を痛めたとか膝を痛くしたという患者さんをみることがあります。これはスクワットのやり方が悪かっただけで、正しいスクワットを指導して治しています。

私のすすめるスクワットはオーソドックスなトレーニングとしてのスクワットですが、なかなか指導しても伝わらないので、工夫をしてみました。壁を使った「かべ体操」と名づけたものです。図⑬は外来の山本ナースが作ってくれたものです。普通の部屋の隅は直角になっていますが、この部屋の角に立って両足を肩幅よりちょっと広めに広げます。左右の壁に両足を平行につけて置きます。

ゆっくりとしゃがみ、ゆっくりと立つことを繰り返すだけですが、このとき尻と膝と足が壁から離れないようにすることが大切なポイントです。

人の足はかかとに比べて前のほうが大きいので、かかとは壁から尐し離します。かかとの中央と二番目の指の付け根を結ぶ線が足の長軸といわれる中心線です。この線上で足首の関節が屈伸しますと足の裏にはアーチがしっかりとでき足の全体に体重が乗ります。つまり尻と膝と足が壁から離れなければ足関節と膝関節と股関節の屈曲進展が同じ方向に行われるということになります。

記憶とは何か|ニュースレターNO.241

4月のニュースレターで紹介しました福岡伸一著:動的平衡(木楽舎2009)は読まれましたでしょうか。読まれた方には重複しますが、面白く興味深いところを紹介したいと思います。それは「記憶」について書かれたところです。

脳学者からみた「記憶」の話と、分子生物学者からみた「記憶」の違いが面白いです。難しい話を平易に解説しているところを見習わなければいけませんね。他にも面白いテーマについて書かれていますので、まだ読まれていない方は是非お読みください。

『生命現象が絶え間ない分子の交換の上に成り立っていること、つまり動的な分子の平衡状態の上に生物が存在しうることは、この記憶物質をめぐる論争が行われていた当時に遡ること二〇年ほど前、すでにルドルフ・シエーンハイマーという科学者によって明らかにされていた。

シェーンハイマーは食べ物に含まれる分子が瞬く間に身体の構成成分となり、また次の瞬潤にはそれは身体の外へ抜け出していくことを見出し、そのような分子の流れこそが生きていることだと明らかにしていたのである。すこし冷静に考えれば、常に代謝回転し続ける物質を記憶媒体にすることなどできるはずもない。

だから、音楽やデータを記録する媒体として、我々は常により安定した物質を求め続けてきた。レコード、磁気テープ、CD、MD、HD……。

ほんの数日で分解されてしまう生体分子を素子として、その上にメモリーを書き込むことなど原理的に不可能だ。記憶物質は見つかっていないのではなく、存在しようがないのである。ヒトの身体を構成している分予は次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。

それは脳細胞といえども例外ではない。脳細胞は一度完成すると増殖したり再生することはほとんどないが、それは一度建設された建造物がずっとそこに立ち続けているようなものではない。脳細胞を構成している内部の分子群は高速度で変転している。その建造物はいたる部分でリフォームが繰り返され、建設当時に使われていた建材など何一つ残ってはいないのである。

つまり、ビデオテープの存在を担保するような分子レベルの物質的基盤は、脳のどこを探してもない。あるのは絶え間なく動いている状態の、ある一瞬を見れば全体として緩い秩序をもつ分子の「淀み」である。そこには因果関係があるのではなく、平衡状態があるにすぎない。

私たちが「記憶の想起」と呼んでいるものも、実は一時点での平衡状態がもたらす効果でしかない。

大半の方がそうだと思うが、私たちは五年前や一〇年前の一年の過ぎ方がどうだったかなどと思い出すことすらできない。過去は恐ろしいほどにボンヤリしたものでしかないのである。

仮に「五年前にはこんなことがあり、一〇年前にはあんなことがあったなあ」と思い出すことはできても、それは日記なり写真なり記念品があるから、それを手がかりに過去の願番をかろうじて跡づけられるのであって、感覚としては、一〇年前のことが五年前のことよりも、より遠い昔のことだという実感を持つことはできない。逆に五年前のことが一〇年前よりも新鮮な記憶としてあるという実感も実はない。

人は年齢を重ねるごとに時間経過の順に物事を記憶しているのではなく、実は過去をおぼろげながらにしか想起できはしないのだ。

ここに記憶というものの正体がある。人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、「想起した瞬間に作り出されている何ものか」なのである。つまり過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態にあるにすぎない。

ビビッドなものがあるとすれば、それは過去がビビッドなのではなく、たった今、ビビッドな感覚の中にいるということである。私たちが鮮烈に覚えている若い頃の記憶とは、何度も想起したことがある記憶のことである。あなたが何度もそれを思い出し、その都度いとおしみ、同時に改変してきた何かのことなのである。

ではいったい記憶とは何だろうか。細胞の中身は、絶え間のない流転にさらされているわけだから、そこに記憶を物質的に保持しておくことは不可能である。それはこれまで見てきたとおりだ。ならば記憶はどこにあるのか。それはおそらく細胞の外側にある、正確にいえば、細胞と細胞とのあいだに。神経の細胞(ニューロン)はシナプスという連繋を作って互いに結合している。結合して神経回路を作っている。

神経回路は、経験、条件づけ、学習、その他さまざまな刺激と応答の結果として形成される。回路のどこかに刺激が入ってくると、その回路に電気的・化学的な信号が伝わる。信号が繰り返し、回路を流れると、回路はその都度強化される。

神経回路は、いわばクリスマスに飾りつけされたイルミネーションのようなものだ。電気が通ると順番に明かりがともり、それはある星座を形作る。オリオン座、いて座、こぐま座。

あるとき、回路のどこかに刺激が入力される。それは懐かしい匂いかもしれない。あるいはメロディかもしれない。小さなガラスの破片のようなものかもしれない。刺激はその回路を活動電位の波となって伝わり、順番に神経細胞に明かりをともす。

ずっと忘れていたにもかかわらず、回路の形はかつて作られた時と同じ尾座となってほの暗い脳内に青白い光をほんの一瞬、発する。

たとえ、個々の神経細胞の中身のタンパク質分子が、合成と分解を受けてすっかり入れ替っても、細胞と細胞とが形作る回路の形は保持される。いや、その形すら長い年月のうちには少しずつ変容するかもしれない。しかし、おおよその星座のかたちはそのまま残る。』

『さて、記憶分子は確かに実在していない。しかし、分子の代謝回転と記憶のあいだには奇妙な関係があるように思える。それは時間経過の感覚のことである。一日が瞬く間に終わる。あるいは一年があっという問に過ぎる。子供の頃はもっともっと一年が長く、充実したものだったのに。

なぜ大人になると時間が早く過ぎるようになるのか。誰もが感じるこの疑問は、ずっと古くからあるはずなのに、なかなか納得できる説明が見当たらない。この難問について生物学的に考察してみよう。

三歳の子供にとって、一年はこれまで生きてきた全人生の三分の一であるのに対し、三〇歳の大人にとっては三〇分の一だから。こんな言い方がある。

よく聞く説明だが、はっきり言って、これは答えになっていない。確かに自分の年齢を分母にして一年を考えると、歳をとるにつれて一年の重みは相対的に小さくなる。しかし、だからといって一年という時間が短く感じられる理由にはならない。

ここで重要なポイントは、私たちが時間の経過を「感じる」、そのメカニズムである。物理的な時間としての一年は、三歳のときも三〇歳のときも同じ長さである。にもかかわらず、私たちは三〇歳の時の一年のほうをずっと短いと感じる。そもそも私たちは時間の経過をどのように把握するのだろうか。

自分がこれまで生きてきた時間をモノサシにして(あるいは分母にして)時間を計っているのだろうか。もしそうなら先の説明も一理あることになる。

でも、これは違う。私たちは自分の生きてきた時間、つまり年齢を、実感として把握してはいない。大多数の人は自分が「まだまだ若い」と思っているはずだし、一〇年前の出来事と二〇年前の出来事の「古さ」を区別することもできない。もし記憶を喪失して、ある朝、目覚めたとしよう。

あなたは自分の年齢を「実感」できるだろうか。自分が何歳なのかは、年号とか日付とか手帳といった外部の記憶をもとに初めて認識できることであって、時間に対する内発的な感覚は極めてあやふやなものでしかない。したがって、これが分母となって時間感覚が発生しているとは考えがたい。

一年があっという間に過ぎる。時間経過の謎は、実は私たちの内部にある。この時間感覚のあいまいさと関連している、というのが私の仮説である。それはこういうことである。』