昨年から皮膚に興味があり、いろいろ文献を調べながら身体調整テクニックに応用できないか実践を繰り返してきました。皮膚には意識があるということが分かっており、色を識別したり音を聞き分けたりもするそうです。皮膚の細胞も筋肉の細胞も臓器の細胞もみんな一つの細胞から分裂したものであり、基本的に同じ性質・機能を持っていると考えられます。

皮膚の感覚器をどのように刺激すればよいのか、その刺激方法はいろいろあります。その代表的なものがマッサージです。マッサージについては、単に静脈や動脈の血液の流れを促進するということ以外に、なぜ血流が良くなるのかという根本的なところはわかっていなかったようです。

そんな折、傳田光洋著:賢い皮膚(ちくま新書2009)に出会いました。この本の中にマッサージに関しての記述があり、それを読んだときなおさら皮膚に興味がわいてきました。皮膚に対していろんなトライができると思いますので、興味のある方は、ぜひ原著をお読みください。ここではマッサージに関するところだけピックアップして紹介します。

『指による刺激を皮膚にほどこし、気持ちよさや健康を保つのがマッサージだとするとそれが現れたのは類人猿になってからでしょう。巧みに指が使えないとできることではありません。

皮膚への刺激が身体全体の生理や情動に影響するという研究報告は数多くなされています。人間では血液や唾液の中のストレスホルモン、コルチゾールの量を測定し、マッサージによってそれが低下するとリラックスしているとみなす、そういう研究が多い。しかし何が起きているかに関する詳しい研究はあまりありません。

動物ではサルの毛づくろいについて、いくつか興味深い研究があります。毛づくろいすると脳内「快感」物質であるβ-エンドルフィンが増える。この物質の代わりになる薬物がモルヒネです。一匹だけサルを鑑に入れておきます。飼育係が棒で撫でてやると、サルはもっともっととせがむようになります。そんなときサルにモルヒネを注射すると満足して棒の毛づくろいを求めなくなる[Keverne EB.1989]。サルにとって毛づくろいは文字どおり麻薬のようなものなのです。

さて人間について考えてみましょう。

マッサージの仕組みはよくわかっていませんでした。皮膚を押したりこすったりすると、温度が上がり、あるいは血管やリンパ管が刺激されて、その循環が良くなる、その結果肌がきれいになったり、しわが伸びたりする、さらには気分も良くなる、ストレスも軽くなる、そんな漠然としたイメージでした。

医学、というより医科学ではあいまいなことを議論するのを避ける傾向があります。マッサージが身体や気分に作用することを否定する人はあまりいないでしょう。しかし医科学の世界でマッサージの治療効果について詳しく語られることは尐ないのです。これはその仕組み、なぜ効果があるのかを細胞レベルの科学で議論できないことが原因でした。

筆者の若い同僚、池山和幸博士は、表皮が一酸化窒素(NO)合成することを発見しました。一酸化窒素というと有害なガスのように思えますが、実は身体のあちこちで作られ、重要な役割を果たしています。特に血液循環への作用が知られている。心筋梗塞の人がニトログリセリンを持ち歩きますが、これはニトログリセリンがNOを発生し、収縮していた血管を広げる作用があるからです。

NOが血管に作用すると血管の細胞に生化学的変化を起こし、血管を広げます。この生化学的作用を持続させる薬がバイアグラです。

血管を広げる物質NOが表皮から出る。それならばマッサージすると、つまり皮膚に圧力を与えると表皮からNOが出て、血管やリンパ管を広げる。これがマッサージの仕組みではないか。そう考えた池山博士は培養した皮膚に圧力をかけてみました。培養皮膚には神経や血管はありません。これまではNOはもっぱら血管細胞自身から出ると考えられてきました。しかし培養皮膚からもNOが出てきました。これは表皮から出てきたNOであると考えました。

NOは酵素によって作られます。NOを作る酵素には三種類あります。神経系にあるもの(nNOS)、血管にあるもの(eNOS)、傷があるとき生まれるもの(iNOS)です。調べてみると健康な表皮にあるのはnNOSです。健康な皮膚ではiNOSはないでしょう。さてマッサージされて働くのはnNOSでしょうか、eNOSでしょうか。

遺伝子操作でnNOSが無い培養皮膚、eNOSが無い皮膚を作ります。そこに圧力をかけてみました。するとどちらの場合も普通の皮膚に比べてNOの量は半分になりました。このことからマッサージ、つまり皮膚に圧力をかけたとき表皮と血管が半分ずつNOを作り、これが血管やリンパ管を広げてその流れをスムーズにすることがわかりました。

マッサージの効果は血液、リンパ液の流れを良くするだけではありません。様々なマッサージの施術を受ける人が期待するのは、ストレスを軽くしリラックスする。身体や心の疲れをとることだと思います。これはどういう仕組みなのでしょうか。

従来の考え方は、皮膚への刺激が脳に伝わり、脳が放出するストレス誘導ホルモンを減らす、あるいは脳の中で「安心」や「快適」な気分をもたらす物質の合成を促進する、というものです。この考え方は否定できないと思います。しかし最近の研究は別のシステムもありうることを示しています。

よくストレスホルモン、と呼ばれる物質があります。腎臓の上にある副腎という臓器で作られるコルチゾールというホルモンです。精神的なストレスがかかると脳は副腎にコルチゾールの合成を作るよう命ずるホルモン(副腎皮質刺激ホルモン)を放出します。その結果合成されたコルチゾールが血液中に増え、様々なストレス性の応答を起こします。

たとえば炎症を起こす反応はストレスがかかると抑えられます。そのため炎症を一時的に抑えるとき、「副腎皮質ホルモン」が投与されます。アトピー性皮膚炎のとき処方される塗り薬にも、それに似た物質が入っていることがあります。

ところが、どうやら表皮もコルチゾールを合成できるらしい。さらに表皮にはコルチゾール合成の引き金になる副腎皮質ホルモンを感じるシステムもありそうです。表皮が傷つくとコルチゾールの合成が表皮で始まるという報告もあり、ストレスを感じストレス性の変化を身体に起こすのには表皮も一役買っていそうです。そうなるとストレスを避けるための表皮のケアということも想定できそうです。

それだけではありません。脳の中で快感や興奮など様々な気分の変化を誘導する物質の多くを表皮は合成することができそうです。前述のβ-エンドルフィン、セロトニン、ドーパミンといった物質です。これらの物質が表皮で造られ血液に放出されても、脳には入らないと考えられています。それなら一体何のために表皮で合成されているのでしょうか。おそらくは未知の使命のために表皮はこれらの物質を造っているのでしょう。

あるいはオキシトシンという物質があります。この物質は母乳の分泌を促進したり、子宮を収縮させるホルモンとして古くから知られていました。赤ちゃんがお母さんの乳首に吸い付くと、その刺激がお母さんの脳、具体的には脳下垂体に届き、そこでオキシトシンが合成、放出されて乳腺に至るとお乳が分泌されるのです。

ところが今世紀になってこのオキシトシンには様々な役割があることがわかってきました。動物を使った実験では、オキシトシンは社会性を担う物質であることが指摘されています[Ferguson JN. 2000]。ネズミでもある社会秩序の中で生きています。それが乱れると種としての生存が危うくなる。たとえば遺伝子操作でオキシトシンが造れないネズミは子育てしなくなります。

他者との関係を維持するためにオキシトシンは重要なのです。オキシトシンを注射すると不安が軽くなる、といった心への作用です。ここまでなら、まあ血液の中を流れるホルモンとしての役割だから驚かない。びっくりしたのはオキシトシンを鼻の孔に噴霧したら他人を信頼するようになったという報告です。これは一流雑誌として有名なNatureに掲載された論文です。

タンパク質やその小型分子であるペプチドの存在を確認するのが抗体による染色です。この技術に長けた傳田澄美子博士がヒト皮膚を染めてみたところ、なんと表皮にオキシトシン抗体への陽性反応が認められました。脳で造られ心に作用する物質が表皮にあるのでしょうか。

確認のためオキシトシンを造る遺伝子が表皮細胞ケラチノサイトにあるかどうか確認したところ、オキシトシンの元になる遺伝子が見つかりました。表皮はオキシトシンを造り、刺激を受けるとそれを放出しているのかも知れません。表皮から放出されたオキシトシンも心に作用するのか、それを確認することは難しい。

皮膚を刺激した場合、神経系も刺激されますから、その情報を元に脳でもオキシトシンが合成され放出される可能性があります。これら二つの起源を持つオキシトシンは物質としては同じものです。化学的な区別は不可能なので、今、言えることは、マッサージなどによる血中オキシトシンの上昇には、脳も表皮も寄与している可能性がある、ということに留まります。

しかしコルチゾール、オキシトシン、あるいは様々な心に影響を及ぼす物質の多くが表皮でも合成されているということは、皮膚、とりわけ表皮と心とのつながりの可能性を改めて認識させます。

普通、人間は簡単に他人を傷つけられない。特に自分の子供を虐待するなど、筆者には生理的に不可能です。ところが時折信じがたい事件が報道されることがあります。多くの場合、加害者の育ち方の異常などが話題になります。しかし恵まれない環境で育っても尊敬されている人も多くいます。むしろ目に見えない、しかし科学的に記述できる何かのコミュニケーション機能の欠陥が、常識では考えられない犯罪の裏にあるのかも知れません。

マッサージ、あるいは皮膚への刺激による身体や心の健康の改善法の研究には、単なる医療技術の改良にとどまらず、様々な我々の問題への解決法を示唆するものが含まれているかも知れません。』