2009年新年のことば|ニュースレターNO.207


 

著者:伊藤 出パーソナルトレーナー / IDEALSTYLE代表

パーソナルトレーナー歴11年|元三笠宮寛仁親王殿下のパーソナルトレーナーであった魚住廣信名誉教授に師事|指導経歴:宝塚歌劇団員・三菱重工神戸野球部員・ボクシングミニマム級5位など|アスリートフードマイスター&元板前。

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あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。2009年最初、通産207回目のニュースレターとなりました。

昨年の11月、12月と久しぶりにリ-コンディショニング講座を開講し、受講者の方々にも現場で活用できるテクニックを提供できたことは嬉しく思います。尐数でやる充実した講座は教える側と受ける側双方が意を一つにできるのでとても楽しいものです。今年は1月、2月、3月にも行いますので、レベルアップを図りたい方はぜひ受講ください。

昨年の後半は不況の風が吹き荒れ、世の中の流れが急変し、学校運営も難しくなってきました。四年制大学が学生募集のために健康、スポーツ、トレーナー系の学部・学科を増設する傾向にあり、そのあおりもあってその種の専門学校も学生集めが難しくなってきました。

もともとトレーナー養成は尐人数で徹底してやるもので、多くの学生を集めてやるものではないという思いがありました。平成スポーツトレーナー専門学校も時代の流れに逆らうことはできず、アスレティックトレーナー学科の単科の専門学校であるために、学生が集まらなければ経営も難しくなります。

それと母体の学校法人平成医療学園が平成22年4月に四年生の医療大学開学の計画があり、平成スポーツトレーナー専門学校もそこに吸収しようということになりました。そのために、今年の新入生は募集せず、平成22年3月で閉校することになりました。したがって、平成スポーツトレーナー専門学校も最後の年となりました。

兵庫大学から平成スポーツトレーナー専門学校に来て6年目を迎えますが、この6年の間にいろんな事がありました。私自身の心臓の手術もありましたが、スポーツトレーナーを育てることがいかにいい加減ではできないことか、現場で活動できる本物を育てるには何をどのように教えるか、私の大きな課題になりました。

6年の間にそれらのことが整理でき、ようやく何をどのように教えるかということがわかってきたところでした。うわべの教科書的な教育では、決して本物を育てることはできません。

知識と実践ということになるのですが、知識の捉え方が問題です。知識ということで、教科書に書いてあることを覚えこませるような知識では役に立たないのです。知識とは、あることに対する考え方を理解させることだと思っています。考え方を教えることによって、応用が利くようになるのです。

このことがトレーナー教育やトレーニング指導者の教育の中で一番欠けていることだと思います。トレーニングにしてもリ-コンディショニングにしても教科書に書いてあることをそのままやっているようでは、現場では成果を出せません。結局は行き詰ってしまって自分自身ごまかしでやってしまうことになります。

平成スポーツトレーナー専門学校の最後の1年を迎えますが、これまでと変わりなく学生の実践教育に情熱をささげたいと思います。同時に、私がこれまで蓄積してきた経験や考え方、テクニックなど、いろんなところで伝えていきたいと思っています。これも私の使命だと思っています。

皆さんのところで数名集まられるようであれば、いつでも伺います。何かの課題をもってレベルアップを図れる手助けができればと思いますので、遠慮なく御連絡ください。また、私のこれまでの経験をまとめた書物(仮題:トレーナーと治療家のための読んで役立つ・解決するスポーツトレーナー虎の巻)を出版する予定です。

内容はコンディショニングやリ-コンディショニングはもちろんですが、コンディショニングやリ-コンディショニングをどのように考え、どのようにことを進めれば思うような結果が得られるのかということについて私の考えをまとめたものです。日頃または講演・講習、セミナーなどで語ってきたことをまとめています。自分自身の頭の中の集大成としてじっくり仕上げたいと思っています。

不況の真っ只中、皆さんも負けずに夢に向かって突進してください。

さて、今年最初のニュースレターはいくつかのキーワードをあげたいと思います。私が常々話をしていることです。

「前向きに考える」「頭を柔軟に」「想像し思い浮かべる」「感じる・感じ取る」「考え方・方法・手段は一つではない」「結果に嘘はない」「木を見て森を見ず」「やってみる-できるから教えられる」

スポーツトレーナーとして、パーソナルトレーナーとして、指導者として常に頭の中においていただきたいキーワードです。それらのキーワードを頭に置きながら、以下の文章を読んでみてください。

文章は「薄氷の踏み方(PHP研究所2008)」という著書からピックアップしたものです。この本は古武術家の甲野善紀と精神科医の名越康文氏との対談書で、その中から甲野氏の話しのところだけピックアップしています。どんなことを感じ取り、どんなことを想像し思い浮かべられるでしょうか。

『近代スポーツが陥りがちな身体の使い方の最大の問題点は、どんな小さな動きでもその動きの中には身体の中にある無数の部位が関連しているということを忘れてしまっている点です。

身体全体を使うことが軽視というより無視されている。そして、自分の意識しやすい部位だけを筋力トレーニングで鍛えています。これではどうしても限界がある。限界があるどころか、全体の調和を崩すことで身体を壊すことにつながってきます。まさに「場」全体に対して気を利かさずに、一つの部分に気が捉われていることで、「場の空気」が読めないため「場」の雰囲気を壊している状態と言えますね。』

『そうですね。私の使う武術の技でも、結果を想像して動くとうまくいきません。なぜダメかというと、たとえば腕を前に出す技を使おうとしても、結果を想像してしまうと、腕を前に出している間に「うまくいくだろうか」という不安が出る。不安が出ればまず、その技は成功しないものです。

そうではなくて、「明日の事を、思い煩うな、明日は明日自身が思い煩うであろう」と聖書にも書いてありますが、過去は過ぎ去ってしまい、未来はまだ来ていないのですから、「願立剣術物語」にもありますが、「いまのいま」を生きるしかないということです。

武術の技で言えば、そこへ腕を持っていくという目的は一応ありますが、それは仮の予定です。今、腕はここにある。それをこれからあそこへ動かす。ただ、それは状況によってはどうなるか分からないということです。決して希望的観測を立てない。そうすると、賭けみたいなもので、当たったり外れたりするからです。

ただ「やる」と決めて、できるかできないかは関係ない。そうしておくと不思議なもので、人間は多くのことができてしまうものなのです。

人生においても、まあ、ためにする人生訓のようなものですが豊臣秀吉が小者のときは草履とりを、その後出世した時々の職分に応じてとにかく「いま」の職分に全力を尽くして、「いま」の仕事と向き合ったという話がありますが、やはり「いまのいま」を生きることが大切であって、先のことを考えていろいろ動くというのは、そんなに良い結果を生むものではありません。

それに先ほども言いましたが、本当に優れた境地は、低いレベルにいる自分が思い描けるものではありません。悟りを目標とした宗教世界で、自分が悟ったときの雰囲気を思い浮かべるなどということはおかしいのです。自分がまだ体験していない、今よりも優れた状況を思い浮かべるということは、根本的に不可能だと思います。

そういうことが「できる」と思っている人がいるかもしれませんが、それは本質的には「できていない」でしょう。』

『・・・これは私が体育学者のところへ行くと嫌がられるのに、ロボット学者のところへ行くと、とても面白がられるのと似ていますね。どちらも人間の身体の構造を論じているのですが、その意識はだいぶ違います。ロボット学者は「人間の動きをロボットで表現するのはたいへんだ」と思っているので、何気ない動きもすごく複雑な動きの積み重ねでできているということが分かっている。

ところが、体育学者は、誰でも自分の身体くらい簡単に動かしていることを前提にして身体を見ている。要するに人間の動きを甘く見ているのです。それに自分たちに説明がつかないことがあると、学者としての沽券に関わると思うのか見なかったことにしてしまう。現実に私が目の前で動いて見せているのに、私の話に、露骨に聞く耳を持たない、という態度をとられたことがありました。

まあ、最近はかなり風向きが変わってきましたが、それでも継続的に話を聞きたい、という人は、ほとんどいませんね。』

『そうやって無理に筋力を付けているから、かえってバランスを崩して怪我しやすくなるということも多いようです。ですからスポーツ選手などでは、その部分の怪我が治っても、試合に出るとまたすぐに怪我をしてしまうのです。それでまた落ちた筋肉を付けようとトレーニングルームに行く。

その悪循環で、結局はやめざるを得ない。そんな選手を、トレーナーはもう数え切れないほど見てきたはずなのに、自分たちのやっていることをおかしいと思わないのですから、本当におかしい。

これは「科学信仰」の弊害と言っても良いと思います。何でも科学的にやることが正しい。科学で認められないものはすべて間違っていると思っているのがいけないのです。

科学的に認められるということは、論文が書けるということです。論文になるものというのは、「AのときのB」または、「A点からB点へ」といった二つのことを一つの関係として、捉えることのできるものだけです。つまり線的な、一次元的展開です。

しかし、同時にいくつもの部位が働いてこそより合理的な働きなのです。そしてそのことは論理では表せません。物理には有名なハイゼンベルクの不確定性理論があります。つまり電子の位置を正確に測ろうとすれば運動量は不正確になるし、運動量を正確に測ろうとすれば電子の位置は不正確になる。物理ですらそう言われているのに、電子よりもっと不可思議な生命体の運動など論理的になど把握できないに決まっています。

また、不確定性理論は、観察しようとする行為そのものが対象を変化させるというジレンマを述べていますが、身体を観察する、ということも野生動物の生態を観察しようとカメラを持っていったら、逃げてしまうのと同じでできないことなのです。観察しようとすることで対象になる動物が逃げてしまうのですから。

養老孟司先生にこの話をしたら、「それは三体問題と同じことですから当たり前です」とあっさり言われたものです。人工衛星の動きも月の引力と地球の引力との三つの力が絡むので、正確には計算できないそうですね。三つ以上のものの関係は一つにまとめられないというのが三体問題です。

ABCDEFとあって、ABCDEF全体とXとか、このABCDEFの中のBとXといった関係なら、理解することはできます。しかし、ACFXを同時に考えたり、記述することは意識の構造上できないのです。意識して考えたことを記述したのが論文ですから、これらは論文のテーマにならないでしょう。

そうすると人間の動きの科学的研究とはいっても、部分化・限定化して、たとえば「どこそこの何々筋を太くすれば」といった非常に狭い範囲の中での話とならざるを得ないわけです。』

『こんなところにも現代日本の二つの病理が表れていますね。まず、単純化したものしか受け入れない、受け入れられない。私が今の科学主義の問題点を指摘しているのも、人体の動きや自然そのものなど決して単純化できない複雑なものを、科学の名のもとに部分化、限定化して単純に理解しやすくしたことで、本質を見えなくしてしまっているからです。

複雑なものは複雑なまま、どう、それをとらえるかの工夫をして、受け入れ、理解しようとしなければ、いつまでたっても前には進めないのです。

そしてもう一つは、自分自身の頭で考えない。とにかく日本人は、常に社会の判断基準と照らし合わせるのが倣い癖になっていますからね。自分が飛びぬけたりすることに対する恐れがある。とにかく仲間はずれにされたくない。昔、たけしさんでしたかが言い始めた「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というのは、つくづく日本の共同体をよく言い表していると思います。

先ほどもお話ししましたが、私から見れば、これは日本において、いじめが減らない大きな原因の一つです。本人が自分なりの判断基準を持っていて一人でいるのを怖がらなければ、いじめの被害者になる可能性も、加害者になる可能性も尐なくなるでしょうし、尐なくとも、親が子どもに対して「生き方の多様性」を認めていれば、いじめがエスカレートする前に学校教育そのものから脱けさせることができるはずですからね。』

『つまり、近代というものが、「ものを学ぶ」「ものを習う」ということをあまりにもマニュアル化し過ぎたために、「できるレベル」の限界を低く下げてしまった。

職人の技も武術の技も、ものすごく微妙に木を削れるとか、ものすごく精妙に動けるという一流の人のものは、近代的な意味での努力を積み重ねているうちに誰もができるようなものではなくて、ある、微妙な感覚を得ることができた人だけができるようになるものだと思います。』

『もちろんそうです。そしてそれができた人にも、それがなぜできたかは分からない。そういうようなものなんです。その「そういうようなものだ」という感覚がなくなってしまうと先に進めないんですよ。

自分が頭で「やろう」と考えて行なう動きというのは、大したことはできない。これはまあ当然の事ですけどね。何気ない、頭で意識しない動きは、自由度がはるかにあるでしょう。なぜなら頭で考えてしまったその瞬間に、本来、動きの中にある無数の要素のうち、ある限定された「AのときにB」という一対の動きしか使えなくなってしまうわけですから。

全体を同時に使わなくては」より高いレベルの動きにはなりません。

では、その「全体を使う」というときに、その使い方をどう学んでいくか。それを金の鉱脈に喩えれば、「金の鉱山の入り口が落ちてしまっていて中が見えなくなっている」というのが現代の状況です。近代的な論理的な世界観、つまり言葉による理解では、要するに「AのときにBになって」という時系列順の理解では、「全体を同時に使う」ということの第一歩も踏み出せないのです。

近代スポーツにおいて推奨されている、うねり系の鞭のような動きというのは、要するに時間の経過とともにだんだん威力が大きくなっていく雪ダルマのようなものですね。これは頭で考えやすい。しかし、より効率のいい、レベルの高い動きというのは、小魚の群れ全体が、パッと一気に方向を変えるように、同時並列、同時多発的に身体のさまざまなところを動かす身体技法です。確かにこれを頭でイメージするのはすごく難しい。

しかし、身体の本質はあくまで「同時並列的」なんです。たとえば誰でもたくさんの人間の中から自分のよく知っている人だけを瞬間的に弁別することができますよね。これは視覚が無意識において、ごく短時間に膨大な量の情報処理を、同時並列的にしているから分かるわけでしょう。』

『そうですね。「身体が動いた」となれば、相当な人ですね。

身体と頭の関係については面白い話があります。私の動きに興味を持ってくれているM君から聞いた話ですが、昔の人工知能研究では脳だけを研究していればいいと思われていたのを、1980年代にマサチューセッツ工科大学のロドニー・ブルックスという教授が、人工知能には身体が必要だと言い出したんですね。これは大変興味深い話ですね。それは、この気づきが生物の動きの根源的な原理を明かしているからです。

つまり、身体が在るということはその在るということで、自動的にできること、できないことが明らかになっているということです。人間の頭脳が何か新しいことをやろうとするのは、その事が、いま現在はできない事であることを知っているからです。なぜなら、人間の頭脳は身体と直結して何ができないかを常に認識しているからです。

もし、身体という制約のないまま、単に頭脳だけがあったとしたら、その頭脳は、何ができて、何ができないかを知るだけでも非常に多くの情報を必要とします。身体があることの有難みは、ちょうど人間にとって食物と水が生きていく上で不可欠であることは、誰でも常に思いつきますが、それ以上に空気が必要であることをつい忘れてしまうようなものだと思います。

ですからブルックス教授が、この考え方を発表したときは、まったく理解されず大変なブーイングが起こったそうですが、次第にその気づきの重大さが知れわたってきたようです。

何度も言いますが、頭で考えることには限界がありますが、実際に起こる事実というのは思いもかけないことが起こるものです。身体を通して頭では考えつかないような体験を数多くして、その中からいろいろ情報をフィードバックして、組み合わせる。そうすれば頭もよくなるし、動きもよくなっていくんです。これはロボットでも人間でも同じことです。

工学関係者が身体にものすごく関心を持ってきたという傾向は面白いと思っています。その研究の副産物が体育界のほうにフィードバックされるようになっていけば、今の体育界に革命的な発想の転換が起きるかもしれないと思っています。』

『今の体育界はともかく自分たちの利権を守ることが最優先のように見えます。だから体育界全体を変えようとする力にはならない。改革に本気で取り組もうと思っている人なんて、一万人に一人もいないと思いますよ。

私は、とりあえず多くの人に近代スポーツの理論とは違った動きを体験してもらおうと、あちこちをまわっています。しかし、目の前で私の動きを見せられても、近代スポーツに頭が染まってしまった体育関係者は、そのときは驚かれるのですが、その後どうやって身につけたらいいか、というような話には展開していかないんですね。

これにはただ驚くだけですね。これは本当にどこへ行っても、同じですよ。ここ何年かで、私が勧める、身体の使い方を積極的に取り入れようとするスポーツ選手の数が増えないのはそういうことです。バスケットボールの浜口(現小磯)典子さん、卓球の平野早矢香さん、ラグビーの平尾剛史さん、それ以外にプロボクシングの選手が一人くらいですかねえ。

つまり、そのくらい自分で考える、自分で価値観を創設するということがなされていない。養老先生風の表現で言えば、共同体というか、所属しているところの価値観に縛られているんだと思います。それも猛烈にきつく縛られている。

まあ、中には、私に近寄らない言い訳として「ああいう人はそのうち宇宙が……とか、気が……とか、怪しいことを言い出すかもしれないから危ない」と言っている人もいるとか。まあ、確かに武術界には、そういう傾向に流れる人もいますがねえ……。』

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