コオーディネーショントレーニング|ニュースレターNO.220


 

著者:伊藤 出パーソナルトレーナー / IDEALSTYLE代表

パーソナルトレーナー歴11年|元三笠宮寛仁親王殿下のパーソナルトレーナーであった魚住廣信名誉教授に師事|指導経歴:宝塚歌劇団員・三菱重工神戸野球部員・ボクシングミニマム級5位など|アスリートフードマイスター&元板前。

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今回のニュースレターが配信されると、帰国まで後1週間になっています。3週間経過したわけですが、どうなっていることやらまったく想像がつきません。前回と同様、出発前に書いています。中国でのことは、次回のニュースレターで紹介したいと思いますので、楽しみにしてください。

今回のニュースレターは、何度か紹介しているコオーディネーションについてです。コオーディネーションというものをどのように考え、どのように実施すればよいのか、適切な示唆を与えていただいているものがあります。

コオーディネーションでたびたび登場される実践面でのコオーディネーション研究の第一人者である徳島大学の荒木秀夫氏がSportsmedicine 2007(「新コオーディネーション論」構築まで)で話されていることは、非常に参考になります。

巷では、これがコオーディネーション能力を高めるエクササイズだという紹介が多々ありますが、「何をするか」ではなく、「コオーディネーション能力を高めるとはどういうことか」という基本的な理解が何より大切です。それがわかれば、ラダートレーニングに見られるように、毎日毎日同じことを繰り返すことの意味がよくわかるはずです。

荒木氏は、トレーニングジャーナルやSportsmedicineでコオーディネーションについて数多くの情報を提供されています。それらを集めますとかなりの量になります。ゆっくり読み返してみますと、なるほどと思うことばかりです。今回は、先のSportsmedicineの中からピックアップして紹介したいと思います。

『我々が運動をどう捉えているのかという実態と、頭の中の属性としてのもの、例えば、「運動」という言葉1つをとっても、中学や高校の物理学の問題で、大砲の弾が何度の角度で飛んでいったとして、その角度が何度で、初速度がどれくらいなら、どこに落下するかというものがあるが、「ただし、空気抵抗はないものとする」とされている。

その前提で何秒後にはその弾はどこにあると計算するのだが、実際には、我々の頭の中では、動いているものを、止まっているものとして、それが連続していると考え、何秒後、何時間後にはどこにあるかを計算する。しかし、実際には一瞬たりともそのものは止まっていない。

我々の概念としては、便宜的に時間や空間を設定する。有名な「ゼノンの詭弁」のように、いつまでたってもアキレスは亀を追い越せないというような1000年以上哲学者を悩ましてきた問題があるが、我々の頭の中にある概念が実際のものと矛盾したものを受け入れて、外に向かって、実際にあるものを再解釈するのが弁証法的な考え方である。

実は、運動において、現場の指導者が行っていることはまさにこれである。テレビのスポーツ解説者はよくわけのわからないことを言っている。例えば「ボールが走っている」とか、「ボールが重い」とか。ボールは投げられてくるのだからもともと「走っている」し、ボールの質量は誰が投げても同じなのに、そういう表現をする。考えるとよくわからないが、やっている人たちにはよくわかる。

では、それが意味しているのは何か。逆に意味がないと思う立場は、分析的であり、分類していこうという立場である。スポーツの本質は何かと考え、1つずつひもといて外していくと、よく見たら何もなかったということが起こる。しかしその外していったいくつかの間の「関係」の中に、スポーツ、運動としてイメージできるものがある。

例えば、1つの筋線維や神経細胞を調べていくと、それが野球やサッカーやアメリカンフットボールとどうつながるのかわからなくなる。しかし、分類したものをまとまった1つのスポーツという現象として捉える思考を保証しているものは何かと考えると、それが全体、あるいは互いの関係をどうみるかという我々が本能的に持っているコオーディネーションなのである。

例えば「かわいい」とか「立派な人間である」とか印象的に表現するが、では「彼がどれくらい立派か、測定してみよう」といっても測定できるものではない。

結局、現場でスポーツをずっとしている人たちは、1つの筋線維や骨格の働きを組み合わせていくのではなく、まず全体から入る。では、研究も全体から入ったらどうなのか、そういう発想がヨーロッパ的なスポーツ科学の原点だったと思われる。

例えば、あるカリスマ的な指導者がいて、あっという間に跳び箱を跳ばせてしまう。すると「彼はすごい」となるけれど、それで終わってしまえば、社会の財産にならない。その「すごい」ものをもっと理論的に整理してみようというのが東ドイツのスタートだったと考えられる。

それはある意味では科学的なものも動員するとともに、科学的には説明しきれないものもあえて加えた。科学的なものとそうでないものを、長い間観察し、まとめ、理論化してきたものを整理して、誰もがこの理論に基づいて実践的な指導ができるものを継承していく。これが東ドイツでのコオーディネーションについての考え方である。』

『生物の系続発生は、体幹から外に向かって完成されていく。それは、初心者はどういう動きをするかと言うと、卓球だと、体幹を卓球台に向けて、体幹は動かさず、手先だけでラケットを振る。ところが熟練者は、上体を曲げて、体幹のひねりも入れて振る。

なぜ、初心者はそうなるか。ラケットを振る動作で、手首をどうするかは、その情報を得るため肘を固定したほうがよい。前腕の動きに関する情報は体幹を固定するほうがよい。最初は動きがよくわからないので、手先の動きを行うためには、最小限の動きで体幹は動かさないということになる。

そのほうが情報を得やすいからである。体幹の動きを制御できるのなら、例えば、7.5度体幹を傾けて、また7.5度戻してという能力が出てくると、全体の動きとして補正しやすくなる。

例えば、指先だけで行う運動でも、今のラケットを振る運動でも、体幹と末梢とは連動して、本来の動きになる。末梢からであっても、体幹からであっても、目的そのものは手の動きそのものでなく、手先をスムーズに動かすには、前腕はどうするか、肘はどうするか、上腕はどうするか、肩はどうするかとなる。

その動きの土台となるのは、手先から情報が入り、体幹へと向かうのか、体幹から発して末梢へ、外へとなるのか。大雑把に言うと、生物の系統発生は、体幹から外に向かって完成されていく。

ところが、学習は末梢から入ってこようとする。ピアノを弾くにしても、指先のほうに意識を持っていく。ピアノを弾くにしても、テニスをするにしても、道具を持って行う前に、原点に戻って、体幹と下肢の動きをやる。

中でも一番の原点は、骨盤から肩までの部分であるが、ヒトの体形を見ると、胴体、体幹の都合で上肢もついているようなものである。体幹がボス、体幹をどうするかという発想で、そこから手足が出てきている。四足動物と全く異なるのは、体幹に対して下肢の重心の支え方が違う。

まずは脊柱を使った動きによる刺激、次に体幹と下肢、そして首。だから、頭の上から1本の芯を通した動きを制御できるかどうかが最優先。あとは、それができると、上腕の内転・外転や、前腕の屈曲・伸展で最後に回内が入るというような動きが短期間にできる。

体幹を左右に振ってと言うと、子どもは首からリードしようとする。生物の発生もそうで、下等な段階では首から入る動きがある。子どもでも動きの刺激が十分入るようになると、体幹を左右に振っても、首は斜めにならず立ったままになる。オートバイのレーサーは、コーナーを回るとき、バイクも身体もインに激しく傾きますが、首は立っている。

ショートトラックでも同じで、内側の指先で氷面上に触れていますが、あれは支えているのではなく、皮膚刺激を得ている。

それほど高度な動きではなく、原点に戻って、身体が「く」の字になったときに、どういう感覚で吸収できるかという基本的なトレーニングを積んでから、ラケットを握るほうが進歩は断然早い。サッカーでも、蹴り方はどうだこうだと、どんなに理屈を教えても、教えるほど身体は硬直して胴体も動かなくなる。

身体をねじる動きでどういう刺激が入ってくるかをいったん押さえておけば、その後の動きは全然違う。それも1ヵ月も2ヵ月もかかるものではなく、1日何十分で十分で、それくらいヒトは、小さいとき、1~5歳くらいに、いやというほど体幹の動きを経験してきているのに、言葉が邪魔して、それを忘れてしまう。

それでラケットはああいうふうに振るんだ、イチローの振り子打法はいいねとなってしまう。』

『ラダートレーニングで、市販のラダーは一定の幅であるが、実際の場面では決まった幅で動いていくわけではなく、常に変動しているので、自分たちで作ったラダー、これは間隔が一定ではなく、ランダムなものを用いている。それで慣れてきたら、さらに音で外乱刺激を入れて、音を合図にスピードの緩急をつけていくというようなことをする。

次の段階では、ラダーのコースを直線ではなく、折って変化をつけたり、課題を変化させたり、さらに次の段階では、視線を下ではなく、誰か立たせてその人が出すサインを見て、そのサインに応じて動作の緩急を変化させたり、ストップ動作も入れたりして変化をつける。

ラダーも含め、トレーニング器材は市販するために一般化されている。そうすると一般化されたため、トレーニングも同じようになってしまう可能性が高い。そうではなく、トレーニング自体もコオーディネーションしていく必要性がある。

子どもは外乱刺激をそのまま受け入れ、楽しんでくれる。例えば、野球なのにラグビーボールを採り入れると、それを楽しんでくれる。しかし、大学生の陸上競技部でスキップのリズムを途中で狂わせるようにすると、その狂いも一定のリズムにしたがるというか、規格化してしまう傾向がある。

2~3日行かないと、ルーティンワークになっていて、元の目的とは異なったものになっている。子どもは、どんどん発展させていって新しい外乱が出てきている。

子どもはつくるのは早いけれど、壊すのも早い。大人の脳とからだは壊すのを嫌がる。一度つくったものを壊そうとしない。自分ができているパターンにこだわるから、ワープロが便利だとわかっていても、手とペンで書くほうにこだわってしまうのがその典型例で、動きもまさにそうである。

子どもは動きのパターンをいつ壊してもいい。言葉でもアメリカに行くと、親より早く英語を話すようになるけれど、日本に戻ると、親より早く英語は捨ててしまえる。動きもそうだが、その経験、こっちに伸ばして、こっちはどうしてということを、実は脳が地ならししていて、どんな種でもまいてという状況になっている。

「壊し」ということを考えると、できつつある動きをいったん壊すというのは、オーソドックスなベンチプレスから突然外乱を加えて、それに順応させてようという刺激を考えればよい。一方、最初から外乱刺激を加える方法もある。

例えば、ある程度サッカーをやっていて、そこからある技術を覚えるのに比較的時間がかかり、むしろ小学校でちょっとやった程度、以降はほとんどやっていないという学生のほうが覚えるのが早い。うまい選手については「あいつは才能がある」と思い、6年間やっていてもうまくない選手については「才能がない」と決めつけることが多いが、そうではない。

ある程度そこそこやってきた選手にチームプレーをさせようというときには、最初は「壊す」ことから始める。通常は前を向いてボールを受けるのを、横を向いて受けさせたりして、これまでの形を崩して行うと早く覚えたりする。それを「クセがあるな、そのクセを出さないようにしろ」と言っても、それは無理である。』

『コオーディネーショントレーニングによって、確かにパフォーマンスやスキルが向上したと正当に評価するのはどこによりどころがあるか。それは、やっている選手が気がつくということである。通らなかったパスが通るようになったときの選手の信念や自信などが、指導者にとっては一番のよりどころ。

コオーディネーショントレーニングをやってどんどん上達していく選手がいて、それは何かとなったとき、あるトレーニングで得た感覚がほかのときにも使えると理解し得た選手である。その説明の論理で今四苦八苦しているのだと思う。カテゴライズしたりしていくのはそういうことだと思う。

コオーディネーションのトレーニングで、「1+1」が3とか4になることがある。その反面1+1が0.5とか0.4になってしまう場面も出てくる。

コオーディネーションに対して開けている人は、どんどん新たなイマジネーションが浮かんできて、自分なりのコオーディネーションのトレーニングをつくっていくが、いわゆるルーティンワークを行ってきた、しかもある程度運動をしてきた人はそれ以上いかなくて、「なんでこんなことをするんだ」と言って閉じてしまう。

その辺は、教える側の柔軟な場づくり、言葉かけ、そういうところに帰っていくと考えるのかというと、そうではなく、その場合2つの問題がある。

1つは、コォーディネートしていく方向での外乱刺激が成立しているかどうか。つまり、1+1が0,5になるのは、1つは上の段階に進むとき、2つのサブシステムがうまくくっついて新しい機能に発達するが、そのとき、それまでできたことができなくなったりする。それがスランプとかプラトー。もう1つは、外乱刺激が強すぎて、壊すだけで、くっつけることがなくなってしまう。

例えば、算数の好きな子が小数が入ってきたとたんに算数が嫌いになったりする。それは強い負荷を与えすぎたときである。ある大学では、入ったときには物理・化学・生物のどれを取ってもよいが、人気があるのは物理。その物理で量子力学が入ると、一番嫌いなのは物理になってしまう。

これが1+1が0,5になった状態である。つまり、外乱刺激が強すぎる。だから、外乱刺激が適切かどうかがまず1つ。

もう1つは、コオーディネーショントレーニングの大原則は、そのトレーニングでの動きが完成されるまでやらないということである。例えば、ラダートレーニングで完成されるまでやると、逆の結果が生じてしまう。コォーディネ一ション能力を破壊してしまう。

つまり、ラダートレーニングは天下一品だけれど、アメリカンフットボールをやらせたら下手ということになってしまう。だから60%程度、70%程度で次の練習に入る。ある練習をやったときに、それが完全にできるようになったときが危ない。

目指しているのは幹が伸びている天の方向なのに、そこから枝が出てそっちの方向に行ってしまう。国際ラダー大会があればよいが、そのラダーで獲得した動きを消すのが大変になる。「あれをやる前はアメリカンフットボール、うまかったのに」となってしまう。だから、60%、70%で次の練習に入るようにする。これが大原則である。

ウエイトトレーニングを行うと、競技よりそっちが面白くなって、トレーニンクの専門家になったという人もいる。

日本ではトレーニングと言うと、ウエイトトレーニングなど筋力やエネルギー的なものを向上させる意味合いが強いが、欧米では、トレーニングと言うと、もっとスキルや動きそのものを高いレベルに持っていくものを言うことが根本にある。』

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